『漢紀』高祖皇帝紀を読んでみよう:その5

その4(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20181023/1540220519)の続き。





九月、沛人殺其令、高祖為沛公、蕭何為丞相、曹參・周勃以中涓從、夏侯嬰・樊噲為舍人。蕭何即沛主獄吏、曹參沛獄掾、嬰沛廄騶、勃以織簿為産、噲以屠狗為事、皆公之舊也。
是時沛公在外黄、兵衆數百人。蕭何等欲應陳勝、故召沛公立之、收沛子弟得三千人。
而項籍亦起兵會稽。籍字羽、故楚將項燕之孫也。羽初起時、年二十四、身長八尺二寸、目重瞳子、力能扛鼎。與季父項梁避讎於呉。梁好為辯説、陰有大志、呉中賢士大夫皆出梁下。梁乃與籍殺會稽太守殷通、佩其印綬、自號為會稽將、籍為裨將、徇下縣。
(『漢紀』高祖皇帝紀巻第一)

劉邦、沛公となる。


及高祖起為沛公、(蕭)何常為丞督事。
(『史記』巻五十三、蕭相国世家)

『漢紀』では蕭何は「丞相」として劉邦に従ったとなっているが、これは「丞」(沛公の副官)の誤りか何かではなかろうか。




元の沛県令が死んだ経緯など大胆に省略されているが、一方で「是時沛公在外黄、兵衆數百人」といった『史記』『漢書』本紀では無いっぽい情報も加わっている。



逃げて山賊化していた劉邦は、陳勝の挙兵に応じるまでの間に外黄で数百人を従えていたという事らしい。




一方で項羽項羽で会稽郡において挙兵する。





劉邦項羽もくしくも同じ年の同じ月に挙兵したという事が、この形式だとよくわかる。



項梁・項羽の方が劉邦より巨大な勢力を築けたのは、もしかすると項梁たちが殺したのが郡守で、劉邦は県令だったから、だろうか。