孤独の司馬師

(毌丘)儉、(文)欽等表曰・・・(中略)・・・按(司馬)師之罪、宜加大辟、以彰姦慝。春秋之義、一世為善、一世宥之。(司馬)懿有大功、海内所書、依古典議、廢師以侯就弟。弟(司馬)昭、忠肅𥶡明、樂善好士、有高世君子之度、忠誠為國、不與師同。臣等碎首所保、可以代師輔導聖躬。太尉(司馬)孚、忠孝小心、所宜親寵、授以保傅。護軍散騎常侍(司馬)望、忠公親事、當官稱能、遠迎乘輿、有宿衞之功、可為中領軍。・・・
(『三国志』巻二十八、毌丘倹伝注)

司馬師に対して反乱を起こした毌丘倹・文欽の言い分では、「司馬師は処刑されてしかるべき悪人だが、一代の善行によって一代は猶予してやるというのが『春秋の義』であるから、司馬師は官職を解任して列侯として屋敷に閉じ込めよ。後任には弟の司馬昭にやらせろ。」と言っており、司馬氏全体を否定してほおらず、司馬師だけを狙い撃ちするモノになっていたらしい。





これは、もしかすると毌丘倹自身が荀氏など司馬氏人脈の側にいる家とも通婚していたことも関係していたかもしれないし、こういった弾劾をすることにより司馬氏の一門内に仲間割れを誘おうとした、というのもあったのかもしれない。





何より、司馬氏全体を弾劾する格好になると、既に司馬氏恩顧、司馬氏一門で要職が占められつつあった状況においては孤立を深める一方であるから、ということが大きいか。





司馬師からすると、深いところでは弟や叔父や従兄弟を信頼することが困難な情勢を作られ、自分だけが頼りという、見えない部分で孤立した状況に置かれたのかもしれない。