『漢書』成帝紀を読んでみよう:その18

その17(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180412/1523459059)の続き。




三年春正月己卯晦、日有蝕之。詔曰「天災仍重、朕甚懼焉。惟民之失職、臨遣大中大夫嘉等循行天下、存問耆老、民所疾苦。其與部刺史舉惇樸遜讓有行義者各一人。」
冬十月庚辰、皇太后詔有司復甘泉泰畤・汾陰后土・雍五畤・陳倉陳寶祠。語在郊祀志。
十一月、尉氏男子樊並等十三人謀反、殺陳留太守、劫略吏民、自稱將軍。徒李譚等五人共格殺並等、皆封為列侯。
十二月、山陽鐵官徒蘇令等二百二十八人攻殺長吏、盜庫兵、自稱將軍、經歴郡國十九、殺東郡太守・汝南都尉。遣丞相長史・御史中丞持節督趣逐捕。汝南太守嚴訢捕斬令等。遷訢為大司農、賜黄金百斤。
(『漢書』巻十、成帝紀

永始3年。



後上以無繼嗣故今皇太后詔有司曰「蓋聞王者承事天地、交接泰一、尊莫著於祭祀。孝武皇帝大聖通明、始建上下之祀、營泰畤於甘泉、定后土於汾陰、而神祇安之、饗國長久、子孫蕃滋、累世遵業、福流於今。今皇帝𥶡仁孝順、奉循聖緒、靡有大愆、而久無繼嗣。思其咎職、殆在徙南北郊、違先帝之制、改神祇舊位、失天地之心、以妨繼嗣之福。春秋六十、未見皇孫、食不甘味、寢不安席、朕甚悼焉。春秋大復古、善順祀。其復甘泉泰畤、汾陰后土如故、及雍五畤・陳寶祠在陳倉者。」天子復親郊禮如前。又復長安・雍及郡國祠著明者且半。
(『漢書』巻二十五下、郊祀志下)


祭祀を長安の南北郊からまた甘泉・汾陰に戻す。


これは皇太后が「私が60歳にもなって後継ぎの孫の顔を見る事が出来ていないのは祭祀を変更してしまったからだ。もとに戻せ」と命じたという事になっている。


おそらくだが、皇帝自身が南北郊に決めた張本人であるため、自分では「間違いだった」と言いづらいという面があったために皇太后が出てきているのかもしれない。




樊並と蘇令がそれぞれ同時期に反乱。



ただ、反乱者の性質はちょっと違う。蘇令は以前にもあったような製鉄所で働く強制労働者であったようだが、樊並の経歴はちょっと独特なのである。

世所傳百両篇者、出東萊張霸、分析合二十九篇以為數十、又采左氏傳・書敍為作首尾、凡百二篇。篇或數簡、文意淺陋。
成帝時求其古文者、霸以能為百両徴、以中書校之、非是。霸辭受父、父有弟子尉氏樊並。時太中大夫平當・侍御史周敞勸上存之。後樊並謀反、乃黜其書。
(『漢書』巻八十八、儒林伝、孔安国)


当時『書経』(『尚書』)の一篇として「百両篇」というのが伝わっていたが、それを伝承されていた人物のひとりがこの樊並だったというのである。


どうも怪しい書であると判断されていたようだが、価値を認める者も朝廷にいたようだ。


つまり樊並は儒者なのである。



儒者の祖といえる孔子こと孔丘先生は謀反人の類と相性が良かった事は割と知られているが、たまにこのような先祖返りした儒者も現れるのであろう。