『漢書』元帝紀を読んでみよう:その10

その9(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180316/1521126268)の続き。





五年春正月、行幸甘泉、郊泰畤。
三月、上幸河東、祠后土。
秋、潁川水出、流殺人民。吏・從官縣被害者與告。士卒遣歸。
冬、上幸長楊射熊館、布車騎、大獵。
十二月乙酉、毀太上皇・孝惠皇帝寢廟園。
(『漢書』巻九、元帝紀)

永光5年。




この年に限らないが、漢の皇帝は天を祀るためにしばしば長安を離れて甘泉の離宮河東郡汾陰県を行き来している。



甘泉はそれほどではないが、汾陰はそこそこ距離がある。この時代の皇帝はこのように各地を移動するのが前提であったのだ。





元帝、今度はメインの皇帝廟の改革に着手。



「天子七廟」に合わせ、太上皇(高祖劉邦の父)、恵帝の二人を単独の廟から外したのである(廟に収められていた位牌を太祖廟などしかるべき場所に収める)。



以前の記事を見ると、どうも廟の数をもっと減らすことも考えられていたらしい。これも、当時の思想的(儒学)な側面ばかりではなく、皇帝廟を減らして祭祀にかかる経費を削減しようという現実的な理由もあったのではないか、と感じる。この当時、祭祀にかかる経費は決して馬鹿に出来る額ではないはずだからだ。