不服な将

太祖既征孫權還、使(張)遼與樂進・李典等將七千餘人屯合肥。太祖征張魯、教與護軍薛悌、署函邊曰「賊至乃發」。俄而權率十萬眾圍合肥、乃共發教、教曰「若孫權至者、張・李將軍出戰。樂將軍守護軍、勿得與戰。」諸將皆疑。遼曰「公遠征在外、比救至、彼破我必矣。是以教指及其未合逆撃之、折其盛勢、以安眾心、然後可守也。成敗之機、在此一戰、諸君何疑?」李典亦與遼同。
(『三国志』巻十七、張遼伝)

張遼・樂進屯合肥、孫權率眾圍之、遼欲奉教出戰。進・典・遼皆素不睦、遼恐其不從、典慨然曰「此國家大事、顧君計何如耳、吾可以私憾而忘公義乎!」乃率眾與遼破走權。
(『三国志』巻十八、李典伝)

かの「合肥の戦い」の際、仲が悪かった張遼・李典・楽進曹操の「張遼と李典は出陣し、楽進は残り護軍薛悌を守れ」という命令に疑いを抱いたという。


だが張遼はこの命令を支持、李典も同様に私憤を忘れて戦うと宣言し、実際にこの2将は800人で大功を立てたという。


つまりこの2人は曹操の命令に疑いを持ってなかったということになる。




結果として、私憤を優先してこの曹操の命令に疑いを持った「諸将」というのが、この件について何の言動も記されていない楽進だった、ということが明らかになってしまった・・・。




曹操楽進がこの命令に一番不服だろうと判断して居残りを命じたのだろうか。