『晋書』宣帝紀を読んでみよう:その13

その12(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/07/05/000100)の続き。






景初二年、帥牛金。胡遵等歩騎四萬、發自京都。
車駕送出西明門、詔弟孚・子師送過温、賜以穀帛牛酒、敕郡守・典農以下皆往會焉。
見父老故舊、讌飲累日。帝歎息、悵然有感、為歌曰「天地開闢、日月重光。遭遇際會、畢力遐方。將掃羣穢、還過故郷。肅清萬里、總齊八荒。告成歸老、待罪舞陽。」
遂進師、經孤竹、越碣石、次于遼水。文懿果遣歩騎數萬阻遼隧、堅壁而守、南北六七十里、以距帝。帝盛兵多張旗幟出其南、賊盡鋭赴之。乃泛舟潛濟以出其北、與賊營相逼、沈舟焚梁、傍遼水作長圍、棄賊而向襄平。諸將言曰「不攻賊而作圍、非所以示衆也。」帝曰「賊堅營高壘、欲以老吾兵也。攻之、正入其計、此王邑所以恥過昆陽也。古人曰、敵雖高壘、不得不與我戰者、攻其所必救也。賊大衆在此、則巢窟虚矣。我直指襄平、則人懷内懼、懼而求戰、破之必矣。」遂整陣而過。賊見兵出其後、果邀之。帝謂諸將曰「所以不攻其營、正欲致此、不可失也。」乃縱兵逆撃、大破之、三戰皆捷。賊保襄平、進軍圍之。
初、文懿聞魏師之出也、請救於孫權。權亦出兵遙為之聲援、遺文懿書曰「司馬公善用兵、變化若神、所向無前、深為弟憂之。」
(『晋書』巻一、宣帝紀

司馬懿、道中で故郷の温県で歓待されて詩を読んだ。



遼東では、公孫淵が派遣してきた大軍をスルーし、直接に本拠襄平を攻撃する。



兵数でアドバンテージが無いとなると、正面から激突するのは得策ではない。司馬懿は守るだけではなく、攻めるにも冷静で的確な戦略眼があるのだろう。




そして途中に挿入される「司馬懿の威名は孫権の呉にも轟いていた。孫権が警戒していた」というエピソード。最初は対呉戦線にいたから不思議な話ではない。