信頼破壊

張濟自關中走南陽。濟死、從子繡領其衆。(建安)二年春正月、公到宛。張繡降、既而悔之、復反。公與戰、軍敗、為流矢所中、長子昂・弟子安民遇害。公乃引兵還舞陰、繡將騎來鈔、公撃破之。繡奔穰、與劉表合。公謂諸將曰「吾降張繡等、失不便取其質、以至於此。吾知所以敗。諸卿觀之、自今已後不復敗矣。」遂還許。
(『三国志』巻一、武帝紀)


曹操張繍をいったん降した時に張繍から人質を取らなかったことが失敗だったと敗戦後の曹操は語っていたらしい。



人質を取らなかった理由は推測しかできないが、張繍を信頼できると思ったか、張繍の歓心を買いたいと思ったか、張繍の勢力が案外強いため気を使ったか、というところだろうか。



太祖征荊州、至宛、張繡迎降。太祖甚悦、延繡及其將帥、置酒高會。太祖行酒、(典)韋持大斧立後、刃徑尺、太祖所至之前、韋輒舉斧目之。竟酒、繡及其將帥莫敢仰視。後十餘日、繡反、襲太祖營、太祖出戰不利、輕騎引去。
(『三国志』巻十八、典韋伝)

だが、先日記事にしたように、曹操は宴会の際に張繍に対して極めて高圧的な態度を取ったように思える。




人質を取らなかったことと宴会での典韋による威圧は、ほとんど矛盾した態度と言わざるを得ない。



まあ、降すまでは甘い言葉で誘い、降伏させてからは一転厳しい態度で立場をわからせる、みたいな感じだったのかもしれないが、どう考えてもその仕打ちを受ける側からすれば不誠実極まりなく、信頼関係を完全に破壊する変貌ぶりだろう。



これでは張繍が心変わりして背くのもやむなし、というところではないだろうか?