昨日の続きみたいなもの。あるいはもう一つの考え。
太祖既征孫權還、使(張)遼與樂進・李典等將七千餘人屯合肥。太祖征張魯、教與護軍薛悌、署函邊曰「賊至乃發」。俄而權率十萬眾圍合肥、乃共發教、教曰「若孫權至者、張・李將軍出戰。樂將軍守護軍、勿得與戰。」諸將皆疑。遼曰「公遠征在外、比救至、彼破我必矣。是以教指及其未合逆撃之、折其盛勢、以安眾心、然後可守也。成敗之機、在此一戰、諸君何疑?」李典亦與遼同。
於是遼夜募敢從之士、得八百人、椎牛饗將士、明日大戰。
(『三国志』巻十七、張遼伝)
打って出る際には決死隊を募って800人を得たという。完全な自由意志によるものかは知らないが、一応は募集によるものだったようだ。
ということは6,000人以上は合肥に残っていたと考えられる。全員が戦闘要員とは限らないが、9割程度は打って出なかったことになる。
思うに、この残りの人員は万が一返り討ちに遭い、張遼たちが見事に散華するような羽目になった時に、合肥を守るための要員になるのだろう。9割残るなら、援軍が来るまでなら持ちこたえるかもしれない。
この守備の要としては、実戦経験が豊富で、かつ前所属の敗北と共に加入するような、「形勢が悪くなったり負け確になったら離反する」といった印象の無い、曹操配下たたき上げであるところの楽進が一番ふさわしいだろう。
張遼は言うまでも無いし、李典は経験という点で楽進ほどではない。
つまり、曹操が楽進に居残りを命じていたのは、「作戦がうまくいかず、出陣した将を失ったうえで守る羽目になったときは、忠誠心も経験も十分な楽進がとにかく守れ」という意味だったのかもしれないということだ。
つまり、出陣して負けた時のことを考えると楽進を残すべきだから、残り2人を出陣させるのだ、という順番で曹操は配置を決めたと考えることもできる。