安衆侯劉崇の乱始末

(居摂元年)四月、安衆侯劉崇與相張紹謀曰「安漢公莽專制朝政、必危劉氏。天下非之者、乃莫敢先舉、此宗室恥也。吾帥宗族為先、海内必和。」紹等從者百餘人、遂進攻宛、不得入而敗。紹者、張竦之從兄也。竦與崇族父劉嘉詣闕自歸、莽赦弗罪。・・・(中略)・・・(王)莽白太后下詔曰「惟嘉父子兄弟、雖與崇有屬、不敢阿私、或見萌牙、相率告之、及其禍成、同共讎之、應合古制、忠孝著焉。其以杜衍戸千封嘉為帥禮侯、嘉子七人皆賜爵關内侯。*1」後又封竦為淑徳侯。
長安為之語曰「欲求封、過張伯松。力戦闘、不如巧為奏。」
莽又封南陽吏民有功者百餘人、汚池劉崇室宅。後謀反者、皆汚池云。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)

王莽が立てた皇帝平帝が死んで幼児を後継ぎと定め、王莽が「摂皇帝」となった後のこと。



南陽郡安衆国の列侯であった劉崇は王莽に非を唱える反乱を起こし、失敗した。




その際、劉崇の一族(族父)の劉嘉は王莽の元に出頭した。



自ら一族の罪に対する責任を認めて罰を乞うたのだろう。




王莽はその忠直を認めて劉嘉を罰しなかったのみならず、今後の褒賞とすべく劉嘉を逆に列侯にしてやった。



また、劉崇の乱の平定に寄与した南陽郡の官吏や民たち多数にも褒賞を与えた。「封」という語からすると列侯や関内侯になった者もいたのかもしれない。






あえて意地の悪い言い方をするなら、南陽郡において勃発した安衆侯劉崇の乱は、南陽の人間たちに害や混乱ばかり与えたわけでもなく、むしろ焼け太った者もいた、ということになりそうだ。




前漢末から新王朝の時代にかけて南陽郡において隆盛していた家の中には、この乱で「焼け太った」家もあったかもしれない。

*1:ちなみに劉嘉が与えられた領土のある杜衍県も南陽郡にある。