謎の都尉

(陳)平遂至修武降漢、因魏無知求見漢王、漢王召入。是時萬石君奮為漢王中涓、受平謁、入見平。平等七人倶進、賜食。王曰「罷、就舍矣。」平曰「臣為事來、所言不可以過今日。」於是漢王與語而説之、問曰:「子之居楚何官?」曰「為都尉。」是日乃拜平為都尉、使為參乗、典護軍 。
諸將盡讙曰「大王一日得楚之亡卒、未知其高下、而即與同載、反使監護軍長者!」漢王聞之、愈益幸平。
(『史記』巻五十六、陳丞相世家)


かの陳平は項羽の元から逃げて劉邦に仕える事になると、劉邦は彼を項羽の時と同じ「都尉」にした、という。




だがこの「都尉」とはどういう官なのか、イマイチ分からない。




「都尉」というとまず思い出すのは漢における郡の武官としての都尉(郡都尉)だが、当時は郡都尉普通は「都尉」と呼ばれてなかった(尉、郡尉と呼ばれた)はずだし、「反使監護軍長者」という諸将の話からすると、陳平の「都尉」は軍中を監視、監督するような職務があったように思われる。


これは郡都尉とはまるで別物に思える。



しかも、秦とは違う官名、体系があったように思える楚でも就いていた官だという。





この陳平の就任した「都尉」というのは、やっぱり謎の官職という感じがする。



それこそ、後の時代の司隷校尉みたいな存在だったのだろうか?