『漢書』高后紀を読んでみよう:その11

その10(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20170925/1506265526)の続き。




八月庚申、平陽侯(曹)窋行御史大夫事、見相國産計事。郎中令賈壽使從齊來、因數産曰「王不早之國、今雖欲行、尚可得邪?」具以灌嬰與齊楚合從状告産。
平陽侯窋聞其語、馳告丞相平・太尉勃。勃欲入北軍、不得入。襄平侯紀通尚符節、乃令持節矯内勃北軍。勃復令酈寄・典客劉揭説祿、曰「帝使太尉守北軍、欲令足下之國、急歸將軍印辭去。不然、禍且起。」祿遂解印屬典客、而以兵授太尉勃。勃入軍門、行令軍中曰「為呂氏右袒、為劉氏左袒。」軍皆左袒。勃遂將北軍
然尚有南軍、丞相平召朱虚侯章佐勃。勃令章監軍門、令平陽侯告衛尉、毋内相國産殿門。産不知祿已去北軍、入未央宮欲為亂。殿門弗内、徘徊往來。平陽侯馳語太尉勃、勃尚恐不勝、未敢誦言誅之、乃謂朱虚侯章曰「急入宮衛帝。」章從勃請卒千人、入未央宮掖門、見産廷中。日餔時、遂撃産。産走。天大風、從官亂、莫敢鬬者。逐産、殺之郎中府吏舍廁中。
(『漢書』巻三、高后紀)

平陽侯曹窋というのは曹参の後継ぎ。もちろん彼も陳平らの側である。呂氏が素直に軍を明け渡して領国に行ってくれないかもしれないと陳平に密かに伝え、陳平・周勃は北軍掌握のため再び手を打つ。



まんまと軍を明け渡す呂禄。呂禄は酈寄を本当に信頼していたんだなあ・・・。




周勃はここで有名な「左袒」の話を軍中に伝える。



何でも『儀礼』なんかだと右袒(衣の右側を肌脱ぎする)は刑を受ける時の作法なんだとか。つまり「呂氏に与するなら罰を受けるからな」というのがその言葉に秘められた意味だったのではなかろうか。




かくして北軍を掌握し、呂産を南軍から切り離すことにも成功した陳平ら。朱虚侯劉章が(「皇帝を守る」ことを口実に)未央宮内で兵を率いて呂産を追い、ついに殺害に成功するのだった。



八月庚申旦、平陽侯窋行御史大夫事、見相國産計事。郎中令賈壽使從齊來、因數産曰「王不蚤之國、今雖欲行、尚可得邪?」具以灌嬰與齊楚合從、欲誅諸呂告産、迺趣産急入宮。
平陽侯頗聞其語、迺馳告丞相・太尉。太尉欲入北軍、不得入。襄平侯通尚符節。迺令持節矯内太尉北軍。太尉復令酈寄與典客劉揭先説呂祿曰「帝使太尉守北軍、欲足下之國、急歸將印辭去、不然、禍且起。」呂祿以為酈兄不欺己、遂解印屬典客、而以兵授太尉。太尉將之入軍門、行令軍中曰「為呂氏右襢、為劉氏左襢。」軍中皆左襢為劉氏。太尉行至、將軍呂祿亦已解上將印去、太尉遂將北軍
然尚有南軍。平陽侯聞之、以呂産謀告丞相平、丞相平迺召朱虚侯佐太尉。太尉令朱虚侯監軍門。令平陽侯告衞尉「毋入相國産殿門。」呂産不知呂祿已去北軍、迺入未央宮、欲為亂、殿門弗得入、裴回往來。平陽侯恐弗勝、馳語太尉。太尉尚恐不勝諸呂、未敢訟言誅之、迺遣朱虚侯謂曰「急入宮衛帝。」朱虚侯請卒、太尉予卒千餘人。入未央宮門、遂見産廷中。日餔時、遂撃産。産走、天風大起、以故其從官亂、莫敢鬬。逐産、殺之郎中府吏廁中。
(『史記』巻九、呂太后本紀)

史記』本紀は文の異同、多い少ないはあるが概ね『漢書』本紀と同じ。というか『漢書』はこのあたりはほぼ引き写し状態ということだ。


敢えてアレンジするような部分が無かったということだろう。