『晋書』宣帝紀を読んでみよう:その1

今度は少し時間を飛ばして『晋書』で行ってみようと思う。


宣皇帝諱懿、字仲達、河内温縣孝敬里人、姓司馬氏。
其先出自帝高陽之子重黎、為夏官祝融。歴唐・虞・夏・商、世序其職。及周、以夏官為司馬。其後程伯休父、周宣王時、以世官克平徐方、錫以官族、因而為氏。
楚漢間、司馬卬為趙將、與諸侯伐秦。秦亡、立為殷王、都河内。漢以其地為郡、子孫遂家焉。
自卬八世、生征西將軍鈞、字叔平。
鈞生豫章太守量、字公度。
量生潁川太守儁、字元異。
儁生京兆尹防、字建公。
(『晋書』巻一、宣帝紀

晋の宣帝司馬懿、誰もが知っているあの司馬懿である。


昔在顓頊、命南正重以司天、北正黎以司地。唐・虞之際、紹重黎之後、使復典之、至于夏・商、故重黎氏世序天地。其在周、程伯休甫其後也。當周宣王時、失其守而為司馬氏。司馬氏世典周史。惠襄之閒、司馬氏去周適晉。晉中軍隨會奔秦、而司馬氏入少梁。
自司馬氏去周適晉、分散、或在衛、或在趙、或在秦。其在衛者、相中山。在趙者、以傳劍論顯、蒯聵其後也。在秦者名錯、與張儀爭論、於是惠王使錯將伐蜀、遂拔、因而守之。錯孫靳、事武安君白起。而少梁更名曰夏陽。靳與武安君阬趙長平軍、還而與之倶賜死杜郵、葬於華池。靳孫昌、昌為秦主鐵官、當始皇之時。
蒯聵玄孫卬為武信君將而徇朝歌。諸侯之相王、王卬於殷。漢之伐楚、卬歸漢、以其地為河内郡。
昌生無澤、無澤為漢巿長。無澤生喜、喜為五大夫、卒、皆葬高門。喜生談、談為太史公。
(『史記』巻一百三十、太史公自序)

ここで語られる司馬氏の系譜は、『史記』で司馬遷が自ら語った系譜と同じ。というか、そこから持ってきているのだろう。



司馬遷が言うところの趙に散った司馬氏が司馬懿の先祖という事になる。



そして劉邦と同時期に殷王になって最終的には劉邦の軍門に降った司馬卬が直接の祖とされている。



又使屯騎校尉班雄屯三輔、遣左馮翊司馬鈞行征西將軍、督右扶風仲光・安定太守杜恢・北地太守盛包京兆虎牙都尉耿溥・右扶風都尉皇甫旗等、合八千餘人、又龐參將羌胡兵七千餘人、與鈞分道並北撃零昌。參兵至勇士東、為杜季貢所敗、於是引退。鈞等獨進、攻拔丁奚城、大克獲。杜秀貢率衆偽逃。鈞令光・恢・包等收羌禾稼、光等違鈞節度、散兵深入、羌乃設伏要撃之。鈞在城中、怒而不救、光等並沒、死者三千餘人。鈞乃遣還、坐徴自殺。
(『後漢書』列伝第七十七、西羌伝)

征西将軍司馬鈞は後漢に確かにいた。本官は左馮翊で、西羌を攻撃して3分の1以上の被害を出して自殺している。


だが一応は対西羌を取りまとめた大将ではあったようなので、軍事的な才覚を期待されていた人物ではあったのかもしれない。




司馬懿のルーツは『史記』では史家という面が強調されているが、ここではどちらかというと武門という印象で書かれているのかもしれない。


姓の意味を考えると、その方が納得できるといえばできる。



曹瞞傳曰、為尚書右丞司馬建公所舉。及公為王、召建公到鄴、與歡飲、謂建公曰「孤今日可復作尉否?」建公曰「昔舉大王時、適可作尉耳。」王大笑。建公名防、司馬宣王之父。
(『三国志』巻一、武帝紀注引『曹瞞伝』)


なお司馬防はあの曹操が若き日に洛陽北部尉になった時の人事担当であったそうな。