『漢紀』高祖皇帝紀を読んでみよう:その29

その28(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20181205/1543935683)の続き。





夏四月、田膻立榮子廣為齊王、膻為相、止城陽項羽與齊戰。
漢王率諸侯之師凡五十六萬人東襲楚、至外黄。彭越將三萬人歸漢、漢拜為相國、令定梁地。
王遂入彭城、悉收楚美人寶貨、置酒高會。羽聞之、留其將撃齊、自以精兵三萬人歸。晨襲漢軍於濉水上。從旦至日中、殺漢士卒十餘萬人、皆入濉水、濉水為之不流。漢軍大敗、圍王三匝。會天大風、揚沙晝晦、楚軍大亂、而王得與數十騎遁去。道逢孝惠魯元公主載行、楚追急、輒推墮之。夏侯嬰嘗收載之、遂得免。而太公呂后被獲于楚。時諸侯皆復歸楚、楚進兵而西。
蕭何悉發關中卒詣軍、韓信亦收餘兵、與王會撃楚于京・索間、大敗之。騎將灌嬰又敗楚騎于滎陽東、故楚師不能復進。
陳平為亞將、屬韓信。或曰、陳平雖美丈夫、如冠玉耳。未有所知也。平居家盜婬其嫂、在官受金。王以讓魏無知。無知曰、大王所知者行也、臣所言者能也。顧其計誠足以益國耳。又何疑。王以平為護軍中尉、盡監護諸將。諸將乃不敢言。
王謂群臣曰、誰能為我説九江王令背楚、項羽必留。必留三月、我之取天下、可以萬全。有儒者隨何請使、至九江、三日不得見。何説太宰曰、今臣所言是邪、大王所欲聞非邪。何等二十人伏斧鑕於淮南市、以明大王背漢而與楚也。太宰言之於王而見之。何曰、竊見大王之與楚、何也。王曰、寡人北面而臣事之。何曰、大王臣事楚者、以為可託國也。項王伐齊、身自負版築以為士卒先。大王宜悉舉淮南之衆、身為先鋒、乃發四千人以助楚。夫北面而臣事人者、固若是乎。漢王戰於彭城、項王未出齊也、大王宜埽淮南之衆、日夜會戰、今無一人渡淮者、垂拱而觀其孰勝。夫託國於人固若是乎。大王提空名以向楚、而欲厚自託、臣竊危之。夫楚兵雖彊、負不義之名、以其背盟約而殺義帝也。漢王收諸侯之兵、還守成皋・滎陽下、獨深溝高壘、分卒守徼乘塞。楚人還兵間行、以梁地深入敵國八九百里、楚欲戰則不得、攻城則力不能、老弱轉輸千里之外、漢堅守不動、進則不得前、退則不得解。楚亦不足恃也。楚勝則諸侯自危懼而相救。夫楚之彊、適足以致天下之兵耳。臣非以淮南之衆、足以亡楚也。今大王舉兵而背攻楚、楚王必留數月、漢之取天下、可以萬全。大王不與萬全之漢、而自託於危亡之楚。臣竊惑之。布陰許之。會楚使至、方急責布發兵。何直入曰、九江王已歸漢。楚何得以令發兵。布甚愕。何因令布殺使者而起兵項羽使龍且撃淮南而身攻下邑。
(『漢紀』高祖皇帝紀巻第二)


劉邦項羽の国の都である彭城を落とすが、項羽は斉から一気に戻って反撃。劉邦は大敗して逃げる。56万が項羽の3万の兵に破れたとされている。



劉邦は息子・娘を捨ててまで逃げようとするほどギリギリだったという。




だが、劉邦は驚異的なリカバリーを見せ、滎陽近辺で項羽の進軍を食い止める。つまり、項羽劉邦の本拠地である関中まで到達する事は出来なかったという事だ。



楚騎來衆、漢王乃擇軍中可為騎將者、皆推故秦騎士重泉人李必・駱甲習騎兵、今為校尉、可為騎將。漢王欲拜之、必・甲曰「臣故秦民、恐軍不信臣、臣願得大王左右善騎者傅之。」灌嬰雖少、然數力戰、乃拜灌嬰為中大夫、令李必・駱甲為左右校尉、將郎中騎兵撃楚騎於滎陽東、大破之。
(『史記』巻九十五、樊酈滕灌列伝)

その時に項羽を阻んだ原動力だったらしい騎将潅嬰は、秦の人間だった李必・駱甲を実質的な指揮官とする大将であったらしい。もちろん、潅嬰自身も優秀な武人で指揮官であったようだが。




そして、もともと項羽との関係に亀裂が入っていた九江王黥布(英布)は、儒者隋何によって項羽から離反して劉邦に付く事となった。



優勝チームの中心選手がFAでライバル球団に移籍したような感じだろうか。