竇融の従祖父

(竇)融見更始新立、東方尚擾、不欲出關、而高祖父嘗為張掖太守、從祖父為護羌校尉、從弟亦為武威太守、累世在河西、知其土俗、獨謂兄弟曰「天下安危未可知、河西殷富、帯河為固、張掖屬國精兵萬騎、一旦緩急、杜絶河津、足以自守、此遺種處也。」兄弟皆然之。
(『後漢書』列伝第十三、竇融伝)


王莽が滅んだ頃、竇融は「高祖父は張掖太守、従祖父は護羌校尉、従弟は武威太守になっており、代々河西にいて習俗を知っている」という事から自立を考えたという。


是歳、西羌龐恬・傅幡等怨(王)莽奪其地作西海郡、反攻西海太守程永、永奔走。莽誅永、遣護羌校尉竇況撃之。
(居攝)二年春、竇況等擊破西羌。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)


このうち護羌校尉になったという従祖父とは、王莽簒奪前に護羌校尉となって西羌の反乱(王莽が引き起こしたとされている)を破った竇況の事だろうか。



竇況も竇融も王莽とは割と近い立場にいた(竇融の妹は王莽の幹部王邑の妻)ようなので、王莽が破れるまでは竇氏は王莽シンパとして忠実に働く武将という事だったのかもしれない。