『漢書』王莽伝を読んでみよう:下その39

その38の続き。


又聞漢兵言莽鴆殺孝平帝。莽乃會公卿以下於王路堂、開所為平帝請命金縢之策、泣以視羣臣。
命明學男張邯稱説其徳及符命事、因曰「易言『伏戎于莽、升其高陵、三歳不興。』『莽』、皇帝之名。『升』謂劉伯升。『高陵』謂高陵侯子翟義也。言劉升・翟義為伏戎之兵於新皇帝世、猶殄滅不興也。」羣臣皆稱萬歳。
又令東方檻車傳送數人、言「劉伯升等皆行大戮」。民知其詐也。
(『漢書』巻九十九下、王莽伝下)

また漢の兵が王莽が平帝を毒殺したと言っていると聞き、王莽は王路堂において三公九卿以下と会して平帝の命を天に冀った策書を開き、泣きながら群臣に見せた。



そして明学男張邯に王莽の徳と予言について論じさせ、そこでこう言った。「『易経』で「草むらに伏兵を隠し、高いところに登っておれば、三年は興ることはない」と言います。「草むら」とは皇帝陛下の名であり、「登る」とは劉伯升を言い、「高いところ」とは高陵侯(丞相翟方進)の子である翟義を言います。劉伯升・翟義は新王朝の皇帝の世において兵に伏することとなり、滅んで勃興することがない、ということを言っているのです。」
それに対して群臣は万歳を唱えた。



また東方より囚人護送車で数人を送ってよこさせ、「劉伯升らは殺戮を行っている」と証言させた。しかし民はそれが偽りであると知っていた。


王莽、平帝殺害説に反論。


(翟)義自號大司馬柱天大將軍、以東平王傅蘇隆為丞相、中尉皋丹為御史大夫、移檄郡國、言莽鴆殺孝平皇帝、矯攝尊號、今天子已立、共行天罰。郡國皆震、比至山陽、衆十餘萬。
(『漢書』巻八十四、翟義伝)


記録上、平帝が毒殺されたと最初に言っているのはこの翟義の反乱時の檄文のようだ。



南陽で反乱を起こした劉氏一味はこの翟義と通婚関係だったりしたので、このあたりの怪情報も引き継がれたのかもしれない。
あるいは、巷間では平帝毒殺説がもともと根強かったのかもしれない。




何にせよ、王莽による情報戦が思ったようには効果を上げなかったことは確からしい。