『漢書』王莽伝を読んでみよう:下その45

その44の続き。


訒曄開武關迎漢、丞相司直李松將二千餘人至湖、與曄等共攻京師倉、未下。
曄以弘農掾王憲為校尉、將數百人北度渭、入左馮翊界、降城略地。
李松遣偏將軍韓臣等徑西至新豐、與莽波水將軍戰、波水走。韓臣等追奔、遂至長門宮。
王憲北至頻陽、所過迎降。大姓櫟陽申碭・下邽王大皆率衆隨憲。屬縣斄嚴春・茂陵董喜・藍田王孟・槐里汝臣・盩厔王扶・陽陵嚴本・杜陵屠門少之屬、衆皆數千人、假號稱漢將。
時李松・訒曄以為京師小小倉尚未可下、何況長安城、當須更始帝大兵到。即引軍至華陰、治攻具。
長安旁兵四會城下、聞天水隗氏兵方到、皆爭欲先入城、貪立大功鹵掠之利。
(『漢書』巻九十九下、王莽伝下)


訒曄は武関を開いて漢(更始帝)を迎え入れ、(更始帝の)丞相司直李松が二千人余りを率いて湖県に至り、訒曄らと共に京師倉を攻めたが下せなかった。
訒曄は弘農の掾の王憲を校尉とし、数百人を率いて北へ向かい渭水を渡り、左馮翊の境界に入り、左馮翊の城を下し土地を侵略した。
李松は偏将軍韓臣らを派遣して西へ行かせ新豊に至り、王莽の波水将軍と戦い、波水将軍は敗走した。韓臣らはそれを追い、長門宮へ至った。
王憲は北へ行き頻陽へ至り、通過したところでは続々と降伏を受け入れた。勢力ある一族である櫟陽の申碭・下邽の王大は多くの人を率いて王憲に随行した。属県の斄の厳春・茂陵の董喜・藍田の王孟・槐里の汝臣・盩厔の王扶・陽陵の厳本・杜陵の屠門少といった者たちは皆数千人を率い、仮に漢の将軍を名乗った。



この時李松・訒曄らは小さな京師倉を落とせず、まして長安城は無理だと思い、更始帝の大軍が来るのを待とうとした。そこで軍を引いて華陰に至り、そこで城攻めの装備を整えた。



その一方で長安近辺の兵が長安城下に集まっていたが、天水の隗囂らの兵が到着すると聞き、みな争って我先にと長安城に入り、王莽を倒すという大功と略奪の利益を得ようとした。



いよいよ武関が抜かれ、漢(更始帝)の軍が三輔に流れ込む。それに反乱が呼応、合流し、いよいよ王莽の喉元にまで刃が迫る。



及漢兵起、(竇)融復從王邑敗於昆陽下、歸長安。漢兵長驅入關、王邑薦融、拜為波水將軍、賜黄金千斤、引兵至新豐。莽敗、融以軍降更始大司馬趙萌、萌以為校尉、甚重之、薦融為鉅鹿太守。
(『後漢書』列伝第十三、竇融伝)


この時期、竇融が波水将軍になっており、新豊を守っていたという。



本文中で敗れた波水将軍というのは竇融のことで間違いないだろう。


姓名が省かれているの理由は何とも言えないが、王莽に与していた上に敗走していたというのは後漢の大族の一つ竇氏にとってあまり良い話でなかったのも事実だろう。





ともあれ、王莽のいる長安城のそばまで反乱軍は近づいていた。