『三国志』陳留王奐紀を読んでみよう:その7

その6(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/03/23/000100)の続き。





二年春二月甲辰、朐䏰縣獲靈龜以獻、歸之于相國府。
庚戌、以虎賁張脩昔於成都馳馬至諸營言鍾會反逆以至沒身、賜脩弟倚爵關内侯。
夏四月、南深澤縣言甘露降。
呉遣使紀陟・弘璆請和。
五月、詔曰「相國晉王誕敷神慮、光被四海。震燿武功、則威蓋殊荒、流風邁化、則旁洽無外。愍卹江表、務存濟育、戢武崇仁、示以威徳。文告所加、承風嚮慕、遣使納獻、以明委順、方寶纖珍、歡以效意。而王謙讓之至、一皆簿送、非所以慰副初附、從其款願也。孫皓諸所獻致、其皆還送、歸之于王、以協古義。」王固辭乃止。
又命晉王冕十有二旒、建天子旌旗、出警入蹕、乗金根車・六馬、備五時副車、置旄頭雲罕、樂舞八佾、設鐘虡宮縣。進王妃為王后、世子為太子、王子・王女・王孫、爵命之號如舊儀。
癸未、大赦
(『三国志』巻四、陳留王奐紀)

咸熙2年前半。


甘露元年三月、(孫)晧遣使隨(徐)紹・(孫)彧報書曰「知以高世之才、處宰輔之任、漸導之功、勤亦至矣。孤以不徳、階承統緒、思與賢良共濟世道、而以壅隔未有所縁、嘉意允著、深用依依。今遣光祿大夫紀陟・五官中郎將弘璆宣明至懷。」紹行到濡須、召還殺之、徙其家屬建安。始有白紹稱美中國者故也。
(『三国志』巻四十八、孫晧伝)

孫晧司馬昭の勧告に対し返答。使者は光禄大夫・五官中郎将という事で、特に高位ではないにしても一応は皇帝の側近を派遣したという感じにはなっているか。あるいは散騎常侍・奉車都尉の徐紹・給事黄門侍郎の孫彧に釣り合うような官位の者にしたとかだろうか。


その裏で、司馬氏側の使者になっていた元呉将徐紹は「中原を賛美していた」というチクりがあったために孫晧によって殺されている。



穀梁子曰、舞夏、天子八佾、諸公六佾、諸侯四佾。
(『穀梁春秋伝』隠公五年九月)

孔子謂季氏八佾舞於庭。是可忍也、孰不可忍也。
(『論語』八佾第三)


「八佾」とは楽団による舞を8×8=64人で行うもので、これは天子の格式とされていたという。かの有名な孔丘先生の憤慨は、天子の格式を魯の臣下であるはずの季孫氏が行っていたためになされている。


これが正式に許されたというのは、晋王司馬昭は限りなく天子に近づいた、という事である。



王の正妻を「王妃」から「王后」にするというのもそれと同様。「后」は「皇后」という言葉から分かるように、皇帝の正妻にも使われている、より格式の高い語なのである。