江表傳曰、是歳魏文帝遣使求雀頭香・大貝・明珠・象牙・犀角・瑇瑁・孔雀・翡翠・鬭鴨・長鳴雞。群臣奏曰「荊。揚二州、貢有常典、魏所求珍玩之物非禮也、宜勿與。」(孫)權曰「昔惠施尊齊為王、客難之曰『公之學去尊、今王齊、何其倒也?』惠子曰『有人於此、欲撃其愛子之頭、而石可以代之、子頭所重而石所輕也、以輕代重、何為不可乎?』方有事於西北、江表元元、恃主為命、非我愛子邪?彼所求者、於我瓦石耳、孤何惜焉?彼在諒闇之中、而所求若此、寧可與言禮哉!」皆具以與之。
(『三国志』巻四十七、呉主伝注引『江表伝』)
魏の文帝曹丕が皇帝となった直後。つまり、父魏王曹操が死んで間もない時期である。
孫権は魏に臣従し、呉王の地位を得ていたが、魏帝曹丕は孫権に対して揚州方面の財宝珍品の献上を要求してきた。
地方が皇帝に対して各地の産物を献上することは昔からの制度ではあったが、その通常の礼制にないモノを要求してきたため、呉では献上に反対する声があった。
しかし、孫権はこちらにとってはそれほど珍しくもないモノを献上して争いを避けられるならそれで良いと答えると共に、「魏帝は父が世を去った喪中だというのにそんな要求をしてくる。こんな輩とは礼制を語っても仕方ないだろう」と言ったという。
本来なら死んだ曹操の子である魏帝曹丕は「三年の喪」に服して大人しくしているべき時だというのに、浅ましくも財宝を要求してくるような非常識なヤツであり、そんな礼を知らぬドクズには「本来の礼制ではこうだ」などと言っても話が通じないから話しても無駄だ、というところか。
曹丕が喪礼をガン無視している非常識なドクズだ、と言っていることになろう。
全員が全員そういう感想ではなかったにしても、当時の曹丕の言動はそういう感想を抱かれても不思議ではない、少なくとも父であり君主であった者の喪中にやることではないと思われがちであった、ということではなかろうか。