孫晧の兄弟

呉歴曰(孫)和四子、晧・徳・謙・俊。孫休即位、封徳錢唐侯、謙永安侯、俊拜騎都尉。晧在武昌、呉興施但因民之不堪命、聚萬餘人、劫謙、將至秣陵、欲立之。未至三十里住、擇吉日、但遣使以謙命詔丁固・諸葛靚。靚即斬其使。但遂前到九里、固・靚出撃、大破之。但兵裸身無鎧甲、臨陳皆披散。謙獨坐車中、遂生獲之。固不敢殺、以狀告晧、晧酖之、母子皆死。俊、張承外孫、聰明辨惠、為遠近所稱、晧又殺之。
(『三国志』巻五十九、孫和伝注引『呉歴』)

孫晧には兄弟として孫徳、孫謙、孫俊という3人がいたらしい。



孫謙は施但の反乱の際に担ぎ上げられ、生きて捕らえられたが母もろとも殺された。ということは孫晧の母何姫(孫晧の皇太后)とは母が違うらしい。




孫俊は「張承外孫」だという。張承は張昭の長子で、孫和の正妻張氏の父である(ちなみに張氏の母方の伯父は諸葛恪の模様)。つまり、孫俊は孫晧と母が違い、正妻張氏の子であり、張昭らの張氏を外戚としているのである。


つまり、孫和の嫡子は孫俊だったかもしれない、ということだ。少なくとも一番後継ぎの座に近かったのは本来は孫俊だったのではないかと思う。





そんな孫俊だけが孫休から列侯を貰っていないというのは不思議な気もする。


もちろん、年齢が若かったからという可能性はあるが、一方で騎都尉という一応は宮仕えの職は与えられているというのは矛盾を感じないでもない。



こういう時、例えば曹操時代の曹丕がそうだったように、「後継ぎだからこそ独立した王や侯にならない」という話を思い出す。



もしかしたら、孫休は孫俊を孫和の嫡子として扱い、王だった孫和の後継ぎとしていずれは王に再度封建しようと考えていて、あえて独立した侯にせずにいたのではないだろうか?




また、ここまで話に出てこない銭唐侯孫徳はどうなったか不明だが、殺されていないのだとすれば孫晧にとって最も親しい親族として王に封建されたりしたのかもしれない。まあそれもわからないのだが。