『晋書』武帝紀を読んでみよう:その19

その18(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/10/10/000100)の続き。





秋七月丁酉、復隴右五郡遇寇害者租賦、不能自存者廩貸之。
乙巳、城陽王景度薨。
詔曰「自泰始以來、大事皆撰録祕書、寫副。後有其事、輒宜綴集以為常。」
丁未、以汝陰王駿為鎮西大將軍・都督雍涼二州諸軍事。
九月、大宛獻汗血馬、焉耆來貢方物。
冬十一月、幸辟雍、行郷飲酒之禮、賜太常博士・學生帛牛酒各有差。
立皇子柬為汝南王。
十二月、呉夏口督・前將軍孫秀帥衆來奔、拝驃騎將軍・開府儀同三司、封會稽公。
戊辰、復置鎮軍官。
(『晋書』巻三、武帝紀)

泰始6年後半。



城陽王景度、死す。

城陽哀王兆字千秋、年十歳而夭。
武帝踐阼、詔曰「亡弟千秋少聰慧、有夙成之質。不幸早亡、先帝先后特所哀愍。先后欲紹立其後而竟未遂、毎追遺意、情懷感傷。其以皇子景度為千秋後、雖非典禮、亦近世之所行、且以述先后本旨也。」
於是追加兆封諡。 景度以泰始六年薨、復以第五子憲繼哀王後。薨、復以第六子祗為東海王、繼哀王後。
(『晋書』巻三十八、城陽哀王兆伝)


城陽王は司馬炎の弟の司馬兆、司馬炎の皇子の司馬景度、同じく司馬炎の皇子の司馬憲と継がれたが、全員早死にしたようである。微妙に呪われた感じだからその後に領土替えしたか?




司馬駿、涼州方面の総督となる。

武帝踐阼、進封汝陰王、邑萬戸、都督豫州諸軍事。呉將丁奉寇芍陂、駿督諸軍距退之。遷使持節・都督揚州諸軍事、代石苞鎮壽春。尋復都督豫州、還鎮許昌。遷鎮西大將軍・使持節・都督雍涼等州諸軍事、代汝南王亮鎮關中、加袞冕侍中之服。
駿善撫御、有威恩、勸督農桑、與士卒分役、己及僚佐并將帥兵士等人限田十畝、具以表聞。詔遣普下州縣、使各務農事。
(『晋書』巻三十八、扶風王駿伝)

司馬駿は司馬師司馬昭の弟。なかなか優秀な人物であったとされる。対呉からこの時期の対涼州へと代わっていったのは、能力を見込まれていたからかもしれない。



孫匡字季佐、(孫)翊弟也。舉孝廉茂才、未試用、卒、時年二十餘。
子泰、曹氏之甥也、為長水校尉。嘉禾三年、從權圍新城、中流矢死。泰子秀為前將軍・夏口督。秀公室至親、握兵在外、晧意不能平。建衡二年、晧遣何定將五千人至夏口獵。先是、民閒僉言秀當見圖、而定遠獵、秀遂驚、夜將妻子親兵數百人奔晉。晉以秀為驃騎將軍・儀同三司、封會稽公。
(『三国志』巻五十一、孫匡伝)

孫秀は孫権の弟孫匡の孫という事になり、どうやら曹氏の血を引いているようだ。魏武は孫策を抱き込む際に自分の弟の娘と孫匡を結婚させたという事なので、この時に結婚した曹氏が産んだ子が孫秀の父の孫泰なのだろう。


皇帝孫晧に対し疑心暗鬼になって亡命を図ったという。ちなみに夏口督は前にも孫壹が魏に降伏しているので、特別に珍しい話でもない。



孫秀は妻子を連れて晋へ逃げたと伝わるが、司馬炎は自分の外族蒯氏を孫秀の妻とした。あれ・・・?一緒に逃げた妻は・・・?