『三国志』陳留王奐紀を読んでみよう:その8

その7(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/03/24/000100)の続き。





秋八月辛卯、相國晉王薨。
壬辰、晉太子炎紹封襲位、總攝百揆、備物典冊、一皆如前。
是月、襄武縣言有大人見、長三丈餘、跡長三尺二寸、白髮、著黄單衣、黄巾、柱杖、呼民王始語云「今當太平。」
九月乙未、大赦
戊午、司徒何曾為晉丞相。
癸亥、以驃騎將軍司馬望為司徒、征東大將軍石苞為驃騎將軍、征南大將軍陳騫為車騎將軍。
乙亥、葬晉文王。
閏月庚辰、康居・大宛獻名馬、歸于相國府、以顯懷萬國致遠之勳。
十二月壬戌、天祿永終、暦數在晉。詔羣公卿士具儀設壇于南郊、使使者奉皇帝璽綬冊、禪位于晉嗣王、如漢魏故事。
甲子、使使者奉策。遂改次于金墉城、而終館于鄴、時年二十。
評曰、古者以天下為公、唯賢是與。後代世位、立子以適。若適嗣不繼、則宜取旁親明徳、若漢之文・宣者。斯不易之常準也。明帝既不能然、情繫私愛、撫養嬰孩、傳以大器、託付不專、必參枝族、終于曹爽誅夷、齊王替位。高貴公才慧夙成、好問尚辭、蓋亦文帝之風流也。然輕躁忿肆、自蹈大禍。陳留王恭己南面、宰輔統政、仰遵前式、揖讓而禪、遂饗封大國、作賓于晉、比之山陽、班寵有加焉。
(『三国志』巻四、陳留王奐紀)

咸熙2年後半。ラスト。




晋王司馬昭は死に、司馬炎が後を継ぐ。



まるで「漢魏故事」そのもののように符号する状況。まあ実際、自分が譲られた時とまるで同じような状態になっているのに自分は譲らないとは言えないだろう。



というわけで、皇帝の地位は司馬炎に譲られた。



丁卯、遣太僕劉原告于太廟。封魏帝為陳留王、邑萬戸、居於鄴宮。魏氏諸王皆為縣侯。
(『晋書』巻三、武帝紀、泰始元年十二月)

皇帝常道郷公は封邑一万戸の陳留王となった。後漢献帝は封邑一万戸の山陽公にされたというので、領土としては同程度である。


公でなく王になっているあたりは山陽公より優遇感があるが、既に五等爵制度が施行されていて普通の臣下にも「公」が存在しうるようになっていたので、「公」では特別扱いにならなかったという事かもしれない(魏では「公」は他に曹氏しか見当たらないので、異姓が「公」になるのは十分特別扱いである)。





評は「昔は賢者だけが天下人の地位を与えられた。その後は嫡子に相続するようになり、嫡子が継ぐ事ができなければ傍系の立派な人物を選ぶようにするものであった。なのに烈祖様はそうせず、私情を優先して幼児に継がせる事にしたうえ、その幼児を託す人物を一人にせず親族を交える事にこだわり、結局曹爽が滅びる事になり皇帝も交代した。高貴郷公は文帝曹丕のような文才があったが感情をコントロールできずに災いを自ら招いた。陳留王は漢魏の故事に従って帝位を譲ったので、山陽公の時よりも優遇されたのである」と言ったところだろうか。



烈祖様が次の皇帝として傍系から優秀な人物を選んでいたら良かったのに、という事だろうか?それならばそもそも司馬懿と曹爽に託すという状況にならなかったわけだから。


まあ、そういう意見もある、という事で。




三国志』本紀は以上。