『三国志』高貴郷公髦紀を読んでみよう:その2

その1(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/03/08/000100)の続き。





正元元年冬十月壬辰、遣侍中持節分適四方、觀風俗、勞士民、察寃枉失職者。
癸巳、假大將軍司馬景王黄鉞、入朝不趨、奏事不名、劍履上殿。
戊戌、黄龍見于鄴井中。
甲辰、命有司論廢立定策之功、封爵・增邑・進位・班賜各有差。
(『三国志』巻四、高貴郷公髦紀)

正元元年。


嘉平6年と同じ年である。



癸巳、天子詔曰「朕聞創業之君、必須股肱之臣、守文之主、亦頼匡佐之輔。是故文武以呂・召彰受命之功、宣王倚山甫享中興之業。大將軍世載明徳、應期作輔。遭天降險、帝室多難、齊王蒞政、不迪率典。公履義執忠、以寧區夏、式是百辟、總齊庶事。内摧寇虐、外靜姦宄、日昃憂勤、劬勞夙夜。徳聲光于上下、勳烈施於四方。深惟大議、首建明策、權定社稷、援立朕躬、宗廟獲安、億兆慶頼。伊摯之保乂殷邦、公旦之綏寧周室、蔑以尚焉。朕甚嘉之。夫徳茂者位尊、庸大者祿厚、古今之通義也。其登位相國、增邑九千、并前四萬戸、進號大都督・假黄鉞、入朝不趨、奏事不名、劍履上殿。賜錢五百萬、帛五千匹、以彰元勳。」帝固辭相國。
又上書訓于天子曰「荊山之璞雖美、不琢不成其寶。顔・冉之才雖茂、不學不弘其量。仲尼有云『予非生而知之者、好古敏以求之者也。』仰觀黄軒五代之主、莫不有所稟則、顓頊受學於綠圖、高辛問道於柏招。逮至周成、旦・望作輔、故能離經辯志、安道樂業。夫然、故君道明於上、兆庶順於下。刑措之隆、實由於此。宜遵先王下問之義、使講誦之業屢聞於聽、典謨之言日陳於側也。」時天子頗修華飾、帝又諫曰「履端初政、宜崇玄樸。」并敬納焉。
(『晋書』巻二、景帝紀

『晋書』によると司馬師は相国の位を固辞したが、封邑や大都督・仮黄鉞、各種恩典については受けたようだ。



「入朝不趨」「剣履上殿」などの恩典は三国時代前後でも董卓や魏武、曹爽などの錚々たる面子が貰っている。