『三国志』斉王芳紀を読んでみよう:その2

その1(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/02/24/000100)の続き。





二月、西域重譯獻火浣布、詔大將軍・太尉臨試以示百寮。
丁丑、詔曰「太尉體道正直、盡忠三世、南擒孟達、西破蜀虜、東滅公孫淵、功蓋海内。昔周成建保・傅之官、近漢顯宗崇寵鄧禹、所以優隆雋乂、必有尊也。其以太尉為太傅、持節統兵都督諸軍事如故。」
三月、以征東將軍満寵為太尉。
夏六月、以遼東東沓縣吏民渡海居齊郡界、以故縱城為新沓縣以居徙民。
秋七月、上始親臨朝、聽公卿奏事。
八月、大赦
冬十月、鎮南將軍黄權為車騎將軍。
十二月、詔曰「烈祖明皇帝以正月棄背天下、臣子永惟忌日之哀、其復用夏正、雖違先帝通三統之義、斯亦禮制所由變改也。又夏正於數為得天正、其以建寅之月為正始元年正月、以建丑月為後十二月。」
(『三国志』巻四、斉王芳紀)

景初3年の残り。



太尉司馬懿、太傅となる。


(曹)爽欲使尚書奏事先由己、乃言於天子、徙帝為大司馬。朝議以為前後大司馬累薨於位、乃以帝為太傅、入殿不趨、贊拜不名、劍履上殿、如漢蕭何故事。嫁娶喪葬取給於官、以世子師為散騎常侍、子弟三人為列侯、四人為騎都尉。帝固讓子弟官不受。
(『晋書』巻一、宣帝紀

『晋書』宣帝紀では、まず司馬懿を大司馬に就け、その上で「大司馬は不幸続きで縁起が悪いから太傅にしましょう」という意見を元に太傅にしたとされる。曹爽が上奏文の閲覧を司馬懿より先にしようとしたため、と説明されている。


より地位の低い側から上奏文を閲覧する事になっていたのだろうか。




遼東から斉の海浜へ逃げてきた者たちがいたので、新たな県を立ててそこに移住させた、という話。


これは、少なくとも公孫淵が滅ぶまでは公孫淵孫権ばかりか民も魏の官憲の網に引っかかる事なく海を渡り青州本土の海辺まで来る事が出来たという事を示しているのだろう。


そして、この新県設立は公孫淵が消えた事で魏の方が青州方面の統治を次第に浸透できるようになってきた事を意味するのかもしれない。





そして、暦を戻すという詔。「1月1日が忌日(烈祖様の命日)になってしまうから暦の方をズラす」のが理由であるようだ。


「以建丑月為後十二月」という事は、烈祖様の暦では正月になるはずの月を「後12月」と称したという事か。なるほど、こうやって月の違いを戻すのか。


「景初3年12月→景初3年後12月→正始元年正月」とカウントされた?それとも、「景初2年12月→景初2年後12月(烈祖様死去の月)→景初3年正月(烈祖様死去の翌月)」という事にされた?そこはよくわからない。どこか別のところで分かるのかもしれない。