『漢書』文帝紀を読んでみよう:その19

その18(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20171028/1509118504)の続き。




贊曰、孝文皇帝即位二十三年、宮室苑囿車騎服御無所筯益。有不便、輒弛以利民。嘗欲作露臺、召匠計之、直百金。上曰「百金、中人十家之産也。吾奉先帝宮室、常恐羞之、何以臺為!」身衣弋綈、所幸慎夫人衣不曳地、帷帳無文繍、以示敦朴、為天下先。治霸陵、皆瓦器、不得以金銀銅錫為飾、因其山、不起墳。南越尉佗自立為帝、召貴佗兄弟、以徳懷之、佗遂稱臣。與匈奴結和親、後而背約入盜、令邊備守、不發兵深入、恐煩百姓。呉王詐病不朝、賜以几杖。羣臣袁盎等諫説雖切、常假借納用焉。張武等受賂金錢、覺、更加賞賜、以媿其心。專務以徳化民、是以海内殷富、興於禮義、斷獄數百、幾致刑措。嗚呼、仁哉!
(『漢書』巻四、文帝紀

漢書』文帝紀はここで『史記』で記されていた名君エピソードを記して文帝の講評を行う。



「嗚呼、仁哉」というのは多分ほとんど最大級の名君であるという評価を意味するのだろう。




孝景皇帝元年十月、制詔御史「蓋聞古者祖有功而宗有徳、制禮樂各有由。聞歌者、所以發徳也。舞者、所以明功也。高廟酎、奏武徳・文始・五行之舞。孝惠廟酎、奏文始・五行之舞。孝文皇帝臨天下、通關梁、不異遠方。除誹謗、去肉刑、賞賜長老、收恤孤獨、以育羣生。減嗜欲、不受獻、不私其利也。罪人不帑、不誅無罪。除宮刑、出美人、重絶人之世。朕既不敏、不能識。此皆上古之所不及、而孝文皇帝親行之。徳厚祈天地、利澤施四海、靡不獲福焉。明象乎日月、而廟樂不稱。朕甚懼焉。其為孝文皇帝廟為昭徳之舞、以明休徳。然后祖宗之功紱著於竹帛、施于萬世、永永無窮、朕甚嘉之。其與丞相・列侯・中二千石・禮官具為禮儀奏。」
丞相臣嘉等言「陛下永思孝道、立昭徳之舞以明孝文皇帝之盛徳。皆臣嘉等愚所不及。臣謹議、世功莫大於高皇帝、徳莫盛於孝文皇帝、高皇廟宜為帝者太祖之廟、孝文皇帝廟宜為帝者太宗之廟。天子宜世世獻祖宗之廟。郡國諸侯宜各為孝文皇帝立太宗之廟。諸侯王列侯使者侍祠天子、歳獻祖宗之廟。請著之竹帛、宣布天下。」
制曰「可。」
太史公曰、孔子言「必世然後仁。善人之治國百年、亦可以勝殘去殺」誠哉是言!漢興、至孝文四十有餘載、徳至盛也。廩廩鄉改正服封禪矣、謙讓未成於今。嗚呼、豈不仁哉!
(『史記』巻十、孝文本紀)


一方、既に文帝の名君エピソードを紹介済みの『史記』では、最後に次の皇帝の時に「功では高皇帝(劉邦)が一番であり、徳では文帝が一番である」と神格化されたことを紹介して締めている。





というわけで、文帝紀については以上。