『晋書』宣帝紀を読んでみよう:その17

その16(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/07/09/000100)の続き。





及齊王即帝位、遷侍中・持節・都督中外諸軍・録尚書事、與(曹)爽各統兵三千人、共執朝政、更直殿中、乗輿入殿。
爽欲使尚書奏事先由己、乃言於天子、徙帝為大司馬。朝議以為前後大司馬累薨於位、乃以帝為太傅、入殿不趨、贊拜不名、劍履上殿、如漢蕭何故事。嫁娶喪葬取給於官、以世子師為散騎常侍、子弟三人為列侯、四人為騎都尉。帝固讓子弟官不受。
正始元年春正月、東倭重譯納貢、焉耆・危須諸國、弱水以南、鮮卑名王、皆遣使來獻。天子歸美宰輔、又增帝封邑。
初、魏明帝好修宮室、制度靡麗、百姓苦之。帝自遼東還、役者猶萬餘人、雕玩之物動以千計。至是皆奏罷之、節用務農、天下欣頼焉。
(『晋書』巻一、宣帝紀

司馬懿、曹爽と共に朝政を牛耳る立場となる。



ただ、曹爽は意図的に司馬懿を大司馬にし、次いで太傅へと祭り上げた。



大司馬になった者はみな死んでしまって縁起が悪いから、同等以上の別の官にしよう」という事らしい。詳しくは分からないが、それまでの太尉よりも太傅になった方が、上奏文を見る順番が後になるという事らしい。官位が低い方から先に見る、という事になっていたのかもしれない。



何にしろ、この通りであれば早速司馬懿と曹爽の間で権力闘争が始まった事になる。


丁丑、詔曰「太尉體道正直、盡忠三世、南擒孟達、西破蜀虜、東滅公孫淵、功蓋海内。昔周成建保傅之官、近漢顯宗崇寵鄧禹、所以優隆雋乂、必有尊也。其以太尉為太傅、持節統兵都督諸軍事如故。」
(『三国志』巻四、斉王芳紀、景初3年2月)


三国志』では司馬懿は太尉から直接太傅になったように書かれる。多分、司馬懿を大司馬にしようというのは提言だけで、正式決定前に不吉な地位であるという意見が出されて太傅に変更した、という事なのだろう。




「烈祖様は宮殿造営や奢侈で民を苦しめていた」とサラッと書かれている事の違和感の無さ。