『三国志』高貴郷公髦紀を読んでみよう:その1

斉王芳紀(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/03/07/000100)の続き。
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高貴郷公諱髦、字彦士、文帝孫、東海定王霖子也。
正始五年、封郯縣高貴郷公。
少好學、夙成。
齊王廢、公卿議迎立公。
十月己丑、公至于玄武館、羣臣奏請舍前殿、公以先帝舊處、避止西廂。羣臣又請以法駕迎、公不聽。
庚寅、公入于洛陽、羣臣迎拝西掖門南、公下輿將答拝、儐者請曰「儀不拝。」公曰「吾人臣也。」遂答拝。至止車門下輿。左右曰「舊乗輿入。」公曰「吾被皇太后徴、未知所為!」遂歩至太極東堂、見于太后
其日即皇帝位於太極前殿、百僚陪位者欣欣焉。
詔曰「昔三祖神武聖徳、應天受祚。齊王嗣位、肆行非度、顛覆厥徳。皇太后深惟社稷之重、延納宰輔之謀、用替厥位、集大命于余一人。以眇眇之身、託于王公之上、夙夜祗畏、懼不能嗣守祖宗之大訓、恢中興之弘業、戰戰兢兢、如臨于谷。今羣公卿士股肱之輔、四方征鎮宣力之佐、皆積徳累功、忠勤帝室。庶憑先祖先父有徳之臣、左右小子、用保乂皇家、俾朕蒙闇、垂拱而治。蓋聞人君之道、徳厚侔天地、潤澤施四海、先之以慈愛、示之以好惡、然後教化行於上、兆民聽於下。朕雖不徳、昧於大道、思與宇内共臻茲路。書不云乎『安民則惠、黎民懷之。』」
大赦改元
減乗輿服御、後宮用度、及罷尚方御府百工技巧靡麗無益之物。
(『三国志』巻四、高貴郷公髦紀)

斉王芳が司馬師によって廃位され、曹丕の孫に当たる高貴郷公が召し出される。


東海定王霖、黄初三年立為河東王。六年、改封館陶縣。明帝即位、以先帝遺意、愛寵霖異於諸國。而霖性麤暴、閨門之内、婢妾之間、多所殘害。
(『三国志』巻二十、東海定王霖伝)


高貴郷公の父の東海王は、どうやら父曹丕からは可愛がられていたらしいが、粗暴で家庭内でDV(物理)を相当やっていた人物であったそうな。



高貴郷公の国がある郯県は東海王国の中にあったと思われる県。つまり、高貴郷公は東海王の国の一部を割譲して封建された事になる。「推恩の令」による分封だったということか?



また、東海王の嫡子(太子)なら普通は分家として封建されないはずなので、高貴郷公は嫡子ではなかったのだろう。それと、東海定王霖伝の内容からすると、この当時東海定王霖はまだ健在だったように思われる。




即位前の高貴郷公はあくまでも「皇太后に召し出されただけでどうなるかわからない」という態度を崩さず、これから皇帝になる者としての扱いを辞退して一人の臣下としてふるまった、という事のようだ。




高貴郷公はこの時は数えで14歳か。少なくとも、この即位前後の所作で「学問に励み謙虚な新皇帝」といった第一印象を広める事は出来たのではなかろうか。



是日、與羣臣議所立。帝曰「方今宇宙未清、二虜爭衡、四海之主、惟在賢哲。彭城王據、太祖之子、以賢、則仁聖明允。以年、則皇室之長。天位至重、不得其才、不足以寧濟六合。」乃與羣公奏太后太后以彭城王先帝諸父、於昭穆之序為不次、則烈祖之世永無承嗣。東海定王、明帝之弟、欲立其子高貴鄉公髦。帝固爭不獲、乃從太后令、遣使迎高貴郷公於元城而立之、改元曰正元。
(『晋書』巻二、景帝紀


なお、司馬師は魏武の子である彭城王拠を擁立しようとしたが、皇太后(烈祖様の皇后郭氏)が望まず、斉王芳と同世代の高貴郷公になったという経緯があったという。魏武の子が即位したら烈祖様の皇統は断絶する事になるし、その皇后であった皇太后郭氏の立場も物凄く微妙になってしまう。皇太后としては譲れない一線だったのだろう。


だが、一方で皇帝を傀儡にしたいなら年少の方がやりやすいはずなので、高貴郷公擁立は司馬師が朝廷を事実上支配する体制を当面継続するという意思表示にも受け取れる。



まあ、実際どういう意図や判断が司馬師や皇太后にあったのかはよく分からない。