『晋書』文帝紀を読んでみよう:その10

その9(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/08/22/000100)の続き。





戊申、帝奏曰「故高貴郷公帥從駕人兵、拔刃鳴鼓向臣所、臣懼兵刃相接、即敕將士不得有所傷害、違令者以軍法從事。騎督成倅弟太子舍人濟入兵陣、傷公至隕。臣聞人臣之節、有死無貳、事上之義、不敢逃難。前者變故卒至、禍同發機、誠欲委身守死、惟命所裁。然惟本謀、乃欲上危皇太后、傾覆宗廟。臣忝當元輔、義在安國、即駱驛申敕、不得迫近輿輦。而濟妄入陣間、以致大變、哀怛痛恨、五内摧裂。濟干國亂紀、罪不容誅、輒收濟家屬、付廷尉。」太后從之、夷濟三族。
與公卿議、立燕王宇之子常道郷公璜為帝。
六月、改元
丙辰、天子進帝為相國、封晉公、增十郡、加九錫如初、羣從子弟未侯者封亭侯、賜錢千萬、帛萬匹。固讓、乃止。
冬十一月、呉吉陽督蕭慎以書詣鎮東將軍石苞偽降、求迎。帝知其詐也、使苞外示迎之、而内為之備。
(『晋書』巻二、文帝紀

皇帝、公式に「故高貴郷公」と呼ばれる。帝位を剥奪された状態なので、帝位に就く前の爵位でしか呼びようがないのだろう。




事件は直接手を下した成済の処刑で幕引きとされ、事実はともあれ「故高貴郷公」は皇太后(形式上は母)に危害を加えようと決起した大不孝者と扱われた。




次の皇帝は燕王宇の子である常道郷公。



燕王宇は魏武の子であるから、常道郷公は世代的には烈祖様と同じ。


これは、烈祖様の系統が否定されたに等しいのではなかろうか。烈祖様の系統からは、「自ら三祖の一人と名乗った皇帝」「暴虐で廃位された(事になっている)皇帝」「親不孝者(という事になってる)皇帝」が連続したようなものなので、「そもそもこの系統があかんねん」という風に判断されたのかもしれない。



まあ、実際には年齢や能力等の面で傀儡として適当な皇族を選んだら彼になっただけかもしれないが。


(景元)十一月、燕王上表賀冬至、稱臣。
(『三国志』巻四、陳留王紀)


ちなみに、燕王宇は健在。息子である皇帝と父である臣下がどう呼び合うのかを特別に決めたりしている。