『三国志』陳留王奐紀を読んでみよう:その2

その1(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/03/18/000100)の続き。





景元元年夏六月丙辰、進大將軍司馬文王位為相國、封晉公、增封二郡、并前満十、加九錫之禮、一如前詔。諸羣從子弟、其未有侯者皆封亭侯、賜錢千萬、帛萬匹。文王固讓乃止。
己未、故漢獻帝夫人節薨、帝臨于華林園、使使持節追諡夫人為獻穆皇后。及葬車服制度皆如漢氏故事。
癸亥、以尚書右僕射王觀為司空。
冬十月、觀薨。
十一月、燕王上表賀冬至、稱臣。詔曰「古之王者、或有所不臣、王將宜依此義。表不稱臣乎!又當為報。夫後大宗者、降其私親、況所繼者重邪!若便同之臣妾、亦情所未安。其皆依禮典處、當務盡其宜。」有司奏以為「禮莫崇于尊祖、制莫大于正典。陛下稽徳期運、撫臨萬國、紹大宗之重、隆三祖之基。伏惟燕王體尊戚屬、正位藩服、躬秉虔肅、率蹈恭徳以先萬國。其于正典、闡濟大順、所不得制。聖朝誠宜崇以非常之制、奉以不臣之禮。臣等平議以為燕王章表、可聽如舊式。中詔所施、或存好問、準之義類、則『燕覿之敬』也,可少順聖敬、加崇儀稱、示不敢斥、宜曰『皇帝敬問大王侍御』。至于制書、國之正典、朝廷所以辨章公制、宣昭軌儀于天下者也、宜循法、故曰『制詔燕王』。凡詔命・制書・奏事・上書諸稱燕王者、可皆上平。其非宗廟助祭之事、皆不得稱王名、奏事・上書・文書及吏民皆不得觸王諱、以彰殊禮、加于羣后。上遵王典尊祖之制、俯順聖敬烝烝之心、二者不愆、禮實宜之、可普告施行。」
十二月甲申、黄龍見華陰縣井中。
甲午、以司隸校尉王祥為司空。
(『三国志』巻四、陳留王奐紀)

甘露3年は陳留王(常道郷公)即位と共に景元元年に改元



司馬昭はまた相国・晋公・九錫を与えられそうになるが、再度辞退。



王観、司空になってすぐに死去。彼は曹爽とは敵対し、司馬懿のクーデターでは中領軍として曹爽側からの軍権回収の任を受けた。つまり司馬氏にとっての功臣である。



燕王来朝。陳留王の父であるが、皇帝に対して王は「臣」と自称しなければいけない。しかし父が子に対して「臣」と称するのもおかしい。という二律背反に悩んだ結果、燕王は自分の名を言わなくていいとか、一般人を含む他の者も燕王の名を呼ばないようにするとかいった特別扱いをする事になった。




王祥が司空に。あの有名な鯉野郎である。