『晋書』文帝紀を読んでみよう:その9

その8(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/08/21/000100)の続き。





景元元年夏四月、天子復命帝爵秩如前、又讓不受。
天子既以帝三世宰輔、政非己出、情不能安、又慮廢辱、將臨軒召百僚而行放黜。
五月戊子夜、使宂從僕射李昭等發甲於陵雲臺、召侍中王沈・散騎常侍王業・尚書王經、出懷中黄素詔示之、戒嚴俟旦。
沈・業馳告于帝、帝召護軍賈充等為之備。
天子知事泄、帥左右攻相府、稱有所討、敢有動者族誅。相府兵將止不敢戰、賈充叱諸將曰「公畜養汝輩、正為今日耳!」太子舍人成濟抽戈犯蹕、刺之、刃出於背、天子崩于車中。
帝召百僚謀其故、僕射陳泰不至。帝遣其舅荀顗輿致之、延於曲室、謂曰「玄伯、天下其如我何?」泰曰「惟腰斬賈充、微以謝天下。」帝曰「卿更思其次。」泰曰「但見其上、不見其次。」
於是歸罪成濟而斬之。
太后令曰「昔漢昌邑王以罪廢為庶人、此兒亦宜以庶人禮葬之、使外内咸知其所行也。」
尚書王經、貳於我也。
(『晋書』巻二、文帝紀

皇帝高貴郷公の凶行。



呼び出した側近たちは王経を除いて司馬昭にこの件を報告。



なお王沈は『魏書』を編纂した人物である。




つまりこの時の魏帝は側近でさえも司馬氏の方を重視していたのだ。


だが、これも後漢末の献帝の側近の事を考えると、やはり因果が巡っているという感じがある。



計画ぶち壊しになった高貴郷公は自分を押し立てて攻めるという強硬手段。臣下は手を出せないだろうという事か。



だが、この時代の臣下は、最高権力者の命とあらば皇帝が懇願していようが皇后を強制連行する事も厭わない者が多数居た時代である。



司馬昭の腹心のひとり賈充の指揮で高貴郷公を攻撃、高貴郷公への刃は背中へ貫通。



流石にこの始末に困った司馬昭。腹心と言える陳泰は「指揮した賈充を処刑するしか収まりはつきません」と進言するが、実行犯の処刑でお茶を濁す



太后は高貴郷公を「庶人の礼」によって葬る。皇帝とはみなさないという事である。



なおこれについては、後日司馬昭ら臣下の側が「せめて王の礼にしましょう」と進言し、それに従ったと『三国志』高貴郷公紀に記されている。