『晋書』文帝紀を読んでみよう:その8

その7(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/08/20/000100)の続き。





夏四月、歸于京師、魏帝命改丘頭曰武丘、以旌武功。
五月、天子以并州之太原・上黨・西河・樂平・新興・雁門、司州之河東・平陽八郡、地方七百里、封帝為晉公、加九錫、進位相國、晉國置官司焉。九讓乃止。於是增邑萬戸、食三縣、諸子之無爵者皆封列侯。
秋七月、奏録先世名臣元功大勳之子孫、隨才敘用。
四年夏六月、分荊州置二都督、王基鎮新野、州泰鎮襄陽。使石苞都督揚州、陳騫都督豫州、鍾毓都督徐州、宋鈞監青州諸軍事。
(『晋書』巻二、文帝紀

司馬昭、晋公への封建と相国への就任を辞退。諸葛誕の乱を平定した功績という事なのだろうが、自分は魏公とは違うと言わんばかりの辞退っぷり。



その一方で過去の功臣・名臣の子孫を登用しようとする。



まあ、ぶっちゃけどちらも一種の人気取りであろう。





荊・揚・予・徐州の新たな都督たちは、基本みな司馬氏恩顧である。彼らが対呉の前線にしてこれまで反乱が頻発した地を抑えるようになったのだ。



王基は司馬懿の推挙を受けた過去があり、州泰は鄧艾と同郷で司馬懿に見いだされた。石苞もやはり鄧艾と共に司馬懿に見いだされたとされている。



こういった人物たちが軍事を支えていたのが司馬氏の強さなのだろう。特に鄧艾や石苞は抜擢と言ってもいい起用であり、唯才主義というのはこういうのを言うのかもしれない。