『晋書』文帝紀を読んでみよう:その19

その18(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/09/03/000100)の続き。





十一月、鄧艾帥萬餘人自陰平踰絶險至江由、破蜀將諸葛瞻於緜竹、斬瞻、傳首。進軍雒縣、劉禪降。
天子命晉公以相國總百揆、於是上節傳、去侍中・大都督・録尚書之號焉。
表鄧艾為太尉、鍾會為司徒。會潛謀叛逆、因密使譖艾。
(『晋書』巻二、文帝紀

鄧艾、山を越えて諸葛瞻(諸葛亮の子)を討ち、蜀漢の皇帝劉禅を降伏させる。



司馬昭は鄧艾を太尉、鍾会を司徒に任命。



これは諸葛誕が反乱を決意する時にあった人事異動と同じようなものだ。


(鄧)艾至成都、(劉)禪率太子諸王及羣臣六十餘人面縛輿櫬詣軍門、艾執節解縛焚櫬、受而宥之。檢御將士、無所虜略、綏納降附、使復舊業、蜀人稱焉。
輒依鄧禹故事、承制拜禪行驃騎將軍、太子奉車、諸王駙馬都尉。蜀羣司各隨高下拜為王官、或領艾官屬。以師纂領益州刺史、隴西太守牽弘等領蜀中諸郡。
使於緜竹築臺以為京觀、用彰戰功。士卒死事者、皆與蜀兵同共埋藏。
艾深自矜伐、謂蜀士大夫曰「諸君頼遭某、故得有今日耳。若遇呉漢之徒、已殄滅矣。」又曰「姜維自一時雄兒也、與某相値、故窮耳。」有識者笑之。
(『三国志』巻二十八、鄧艾伝)


鄧艾は降伏した劉禅らに官位を与えるなどの益州仕置を始めた。



だが司馬昭は彼を三公にして中央へ召還。どうやら、鄧艾はそのまま呉に圧力をかけて一気に潰してしまおう、と考えていたらしいが、司馬昭らはストッパーが効かなくなってきた鄧艾を止めようとしたようだ。



劉禅らに与えた官位なども、臨時の措置として独断でやったと思われる。蜀漢の人間への言動などはかなり調子に乗っている。




(鍾)會内有異志、因鄧艾承制專事、密白艾有反状、於是詔書檻車徴艾。
(『三国志』巻二十八、鍾会伝)

鍾会はそんな鄧艾の独断専行を反逆行為として糾弾、鄧艾は容疑者としてドナドナされる事となった。




無論、野望を秘めた鍾会の策略であるが、このあたりの経緯を見る限りでは鄧艾も英雄から容疑者に転落するだけの理由が無いとは言えないところもある。




なお、司馬昭はその間に相国として王朝を全面的に取り仕切るようになった。



侍中・大都督・録尚書の称号が無くなったというと権限が減ったように見えるが、たぶんこれは逆。全てを支配する状態なので、権限の範囲を示す号は不要になったのである。