『晋書』文帝紀を読んでみよう:その7

その6(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/08/19/000100)の続き。





三年春正月壬寅、(諸葛)誕・(文)欽等出攻長圍、諸軍逆撃、走之。
初、誕・欽内不相協、及至窮蹙、轉相疑貳。會欽計事與誕忤、誕手刃殺欽。欽子鴦攻誕、不克、踰城降。以為將軍、封侯、使鴦巡城而呼。帝見城上持弓者不發、謂諸將曰「可攻矣!」
二月乙酉、攻而拔之、斬誕、夷三族。呉將唐咨・孫曼・孫彌・徐韶等帥其屬皆降、表加爵位、廩其餒疾。
或言呉兵必不為用、請坑之。帝曰「就令亡還、適見中國之弘耳。」於是徙之三河
(『晋書』巻二、文帝紀

諸葛誕と文欽、自滅。



相性最悪の諸葛誕と文欽は内紛を起こし、諸葛誕が文欽を自ら殺害するに至った。子の文鴦(司馬師の親父を飛び出させた人)は降伏。



残る諸葛誕司馬昭に攻められて斬られた。



唐咨ら呉将も降伏。

唐咨本利城人。黄初中、利城郡反、殺太守徐箕、推咨為主。文帝遣諸軍討破之、咨走入海、遂亡至呉、官至左將軍、封侯・持節。(諸葛)誕・(文)欽屠戮、咨亦生禽、三叛皆獲、天下快焉。
拝咨安遠將軍、其餘裨將咸假號位、呉衆悦服。江東感之、皆不誅其家。
其淮南將吏士民諸為誕所脅略者、惟誅其首逆、餘皆赦之。聽(文)鴦・虎收斂欽喪、給其車牛、致葬舊墓。
(『三国志』巻二十八、諸葛誕伝)


唐咨たちは殺されず将軍位を得た。



呉兵はこちらのために働かない(逃げる)だろうから皆殺しにしてしまえという意見もあったようだが、司馬昭は「逃げたとしても呉にこちらの寛大さを宣伝する事になるだけだ」と答え、三河(首都圏)へ連行はしたが殺しはしなかった。


このあたり、魏の創始者がかの官渡の戦いで降伏者数万をしまっちゃったという一説と対比するようになっているのかもしれない。




兵糧攻めに持ち込み、策略も駆使して自滅を誘い、最後に一気に潰す。十分な戦力があったからとはいえ、なかなかの手際と言えよう。



文王勅青・徐・兗・豫・荊・揚諸州並使作船、又令唐咨作浮海大船、外為將伐呉者。
(『三国志』巻二十八、鍾会伝)


なお唐咨はその後も司馬昭の元で働いており、司馬昭蜀漢攻めの際には呉に対する陽動として水軍の整備を命じられたらしい。


呉でも何度も出征しているし、軍事面で見どころのある将だったのかもしれない。