『三国志』陳留王奐紀を読んでみよう:その5

その4(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/03/21/000100)の続き。





咸熙元年春正月壬戌、檻車徴鄧艾。
甲子、行幸長安
壬申、使使者以璧幣祀華山。
是月、鍾會反于蜀、為衆所討。鄧艾亦見殺。
二月辛卯、特赦諸在益土者。
庚申、葬明元郭后。
三月丁丑、以司空王祥為太尉、征北將軍何曾為司徒、尚書左僕射荀顗為司空。
己卯、進晉公爵為王、封十郡、并前二十。
丁亥、封劉禪為安樂公。
夏五月庚申、相國晉王奏復五等爵。
甲戌、改年。
癸未、追命舞陽宣文侯為晉宣王、舞陽忠武侯為晉景王。
六月、鎮西將軍衞瓘上雍州兵于成都縣獲璧玉印各一、印文似「成信」字、依周成王歸禾之義、宣示百官、藏于相國府。
(『三国志』巻四、陳留王奐紀)

咸熙元年前半。



鄧艾は捕まり、小畜生は反乱し、結局どちらも死ぬ。



鄧艾も独断専行気味だったので、生き残っていたとしても司馬昭からは警戒されていい終わり方は出来なかったんじゃないか、などと思わないでもない。小畜生は、まあなるようになったという事で。



司馬昭が晋公だった時期は1年も無く、すぐに晋王になる。蜀攻め半分の段階で晋公になれるのだから、蜀全部併呑したら晋王になって領土も倍になる。そういう計算か。



時大將軍閻宇都督巴東、拝(羅)憲領軍、為宇副貳。魏之伐蜀、召宇西還、憲守永安城
成都敗、城中擾動、邊江長吏皆棄城走、憲斬亂者一人、百姓乃安。知劉禪降、乃率所統臨于都亭三日。
呉聞蜀敗遣將軍盛憲西上、外託救援、内欲襲憲。憲曰「本朝傾覆、呉為脣齒、不恤我難、而邀其利、吾寧當為降虜乎!」乃歸順。於是繕甲完聚、厲以節義、士皆用命。及鍾會・鄧艾死、百城無主、呉又使歩協西征、憲大破其軍。孫休怒、又遣陸抗助協。憲距守經年、救援不至、城中疾疫太半。或勸南出牂柯、北奔上庸、可以保全。憲曰「夫為人主、百姓所仰、既不能存、急而棄之、君子不為也。畢命於此矣。」會荊州刺史胡烈等救之、抗退。
(『晋書』巻五十七、羅憲伝)


当時蜀漢の対呉戦線を守っていた羅憲は、蜀漢救援を理由に兵を送ってきた呉を拒み、「降伏した方がマシだ」と言って魏(晋)に降伏したそうな。まあ呉が所謂火事場泥棒になるであろう事は見え見えだったのかもしれないが、利用して共に魏(晋)を討つよりも降伏してでも呉を拒むのを選ぶ裏には私怨もあったのではないか、などと勘ぐってしまう。まあ分からんけど。


まあ、皇帝劉禅も既に降伏しているのだし、帰順するのも別におかしくないが。