『晋書』武帝紀を読んでみよう:その27

その26(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/10/23/000100)の続き。





秋七月甲申晦、日有蝕之。
郡國螟。
八月壬寅、沛王子文薨。
以故太傅鄭沖・太尉荀顗・司徒石苞・司空裴秀・驃騎將軍王沈・安平獻王孚等及太保何曾・司空賈充・太尉陳騫・中書監荀勖・平南將軍羊祜・齊王攸等皆列於銘饗。
九月甲子、青州螟、徐州大水。
冬十月乙酉、常山王殷薨。
癸巳、彭城王權薨。
十一月癸亥、大閱於宣武觀、至于己巳。
十二月丁亥、追尊宣帝廟曰高祖、景帝曰世宗、文帝曰太祖。
是月大疫、洛陽死者太半。
封裴頠為鉅鹿公。
(『晋書』巻三、武帝紀)

咸寧元年後半。



沛王子文というのは安平王司馬孚の子。列伝では名が景、子文は字とされている。


常山王殷というのは安平王司馬孚の孫の司馬敦の事であるらしい。伝写の誤りか。



彭城穆王權字子輿、宣帝弟魏魯相東武城侯馗之子也。初襲封、拜冗從僕射。武帝受禪、封彭城王、邑二千九百戸。出為北中郎將・都督鄴城守諸軍事。泰始中入朝、賜袞冕之服。咸寧元年薨、子元王植立。
(『晋書』巻三十七、彭城穆王権伝)

彭城王権は司馬懿の弟の子だそうだ。司馬師司馬昭の従兄弟という事なので、今の皇帝司馬炎からすると一つ上の世代。



都督鄴城守諸軍事を務めたというから、ある程度はまともに仕事のできる皇族だったのだろう。





宣帝司馬懿の廟を「高祖」、景帝司馬師の廟を太宗、文帝司馬昭の廟を太祖と定めた。



事実上の初代と言っていい司馬懿と、晋国の初代である司馬昭を共に「祖」という初代として扱っている。

ちなみに皇帝としての初代司馬炎は世祖。魏のように三祖そろい踏みであるが、いつになっても魏の烈祖様が祖である理由は分からない。

晋の方がまだ三祖である理由は分かりやすい。