『晋書』景帝紀を読んでみよう:その3

その2(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/07/23/000100)の続き。





五年夏五月、呉太傅諸葛恪圍新城、朝議慮其分兵以寇淮泗、欲戍諸水口。帝曰「諸葛恪新得政於呉、欲徼一時之利、并兵合肥、以冀萬一、不暇復為青徐患也。且水口非一、多戍則用兵衆、少戍則不足以禦寇。」恪果并力合肥、卒如所度。
帝於是使鎮東將軍毌丘儉・揚州刺史文欽等距之。儉・欽請戰、帝曰「恪卷甲深入、投兵死地、其鋒未易當。且新城小而固、攻之未可拔。」遂命諸將高壘以弊之。相持數月、恪攻城力屈、死傷太半。帝乃敕欽督鋭卒趨合榆、要其歸路、儉帥諸將以為後繼。恪懼而遁、欽逆撃、大破之、斬首萬餘級。
(『晋書』巻二、景帝紀

呉の諸葛恪が合肥を攻撃。現地の毌丘倹・文欽らは籠城するが、これは司馬師の指示であるという。司馬懿諸葛亮との交戦を避けたのと近いか。



呉太傅諸葛恪圍合肥新城、(毌丘)儉與文欽禦之、太尉司馬孚督中軍東解圍、恪退還。
(『三国志』巻二十八、毌丘倹伝)

漢晉春秋曰、是時姜維亦出圍狄道。司馬景王問虞松曰「今東西有事、二方皆急、而諸將意沮、若之何?」松曰「昔周亞夫堅壁昌邑而呉・楚自敗、事有似弱而彊、或似彊而弱、不可不察也。今恪悉其鋭衆、足以肆暴、而坐守新城、欲以致一戰耳。若攻城不拔、請戰不得、師老衆疲、勢將自走、諸將之不徑進、乃公之利也。姜維有重兵而縣軍應恪、投食我麥、非深根之寇也。且謂我并力于東、西方必虚、是以徑進。今若使關中諸軍倍道急赴、出其不意、殆將走矣。」景王曰「善!」乃使郭淮・陳泰悉關中之衆、解狄道之圍。敕毌丘儉等案兵自守、以新城委呉。姜維聞淮進兵、軍食少、乃退屯隴西界。
(『三国志』巻四、斉王芳紀、嘉平5年、注引『漢晋春秋』)

(諸葛)恪意欲曜威淮南、驅略民人、而諸將或難之曰「今引軍深入、疆埸之民、必相率遠遁、恐兵勞而功少、不如止圍新城。新城困、救必至、至而圖之、乃可大獲。」恪從其計、迴軍還圍新城。攻守連月、城不拔。士卒疲勞、因暑飲水、泄下流腫、病者大半、死傷塗地。諸營吏日白病者多、恪以為詐、欲斬之、自是莫敢言。恪内惟失計、而恥城不下、忿形於色。將軍朱異有所是非、恪怒、立奪其兵。都尉蔡林數陳軍計、恪不能用、策馬奔魏。魏知戰士罷病、乃進救兵。恪引軍而去。
士卒傷病、流曳道路、或頓仆坑壑、或見略獲、存亡忿痛、大小呼嗟。而恪晏然自若。出住江渚一月、圖起田於潯陽、詔召相銜、徐乃旋師。由此衆庶失望、而怨黷興矣。
(『三国志』巻六十四、諸葛恪伝)


この時、蜀漢からも姜維が軍を出していた。司馬師蜀漢に対しては先制攻撃によって早急に追い払い、呉に対しては籠城させた。両方に同時に大軍を出す事は出来なかったという事情もあったのだろう。



対呉戦線に司馬師がこまめに指示を出す時間があったのだろうか、というのは少々疑問が無くもないが、前もってある程度のプログラムを組んでいた、みたいな事だったかもしれない。



実際には対呉・蜀漢それぞれの現場の奮闘によるところが大きかったかもしれないが、何にせよ、呉と蜀漢が同時期に攻め寄せるという一大事を司馬師が冷静に対処し、どちらも退けたのは事実なのだろう。