『晋書』宣帝紀を読んでみよう:その12

その11(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/07/04/000100)の続き。





三年、遷太尉、累增封邑。
蜀將馬岱入寇、帝遣將軍牛金撃走之、斬千餘級。
武都氐王苻雙・強端帥其屬六千餘人來降。
關東饑、帝運長安粟五百萬斛輸於京師。
四年、獲白鹿、獻之。天子曰「昔周公旦輔成王、有素雉之貢。今君受陝西之任、有白鹿之獻、豈非忠誠協符、千載同契、俾乂邦家、以永厥休邪!」
及遼東太守公孫文懿反、徴帝詣京師。天子曰「此不足以勞君、事欲必克、故以相煩耳。君度其作何計?」對曰「棄城預走、上計也。據遼水以距大軍、次計也。坐守襄平、此成擒耳。」天子曰「其計將安出?」對曰「惟明者能深度彼己、豫有所棄、此非其所及也。今懸軍遠征、將謂不能持久、必先距遼水而後守、此中下計也。」天子曰「往還幾時?」對曰「往百日、還百日、攻百日、以六十日為休息、一年足矣。」
是時大修宮室、加之以軍旅、百姓饑弊。帝將即戎、乃諫曰「昔周公營洛邑、蕭何造未央、今宮室未備、臣之責也。然自河以北、百姓困窮、外内有役、勢不並興、宜假絶内務、以救時急。」
(『晋書』巻一、宣帝紀

司馬懿、太尉となる。



そして今度は三輔から遼東へ。



「公孫文懿」というのは公孫淵の事。『晋書』が成立した唐においては初代皇帝の諱「淵」が回避されているのだ。


つまり公孫淵の字が「文懿」という事だ。この字は『三国志』の方には書かれていないはずである。『三国志』が成立した晋においては司馬懿の諱が避けられていたからかもしれないし、偶然かもしれない。



「一年でぶっ潰してきます」と烈祖様に対し豪語した司馬懿。「廟勝」の演出か。



宮殿造営に定評のある烈祖様、司馬懿にも諫言されるの巻。烈祖様の反応が書かれていないのは、見届けずに出征したからなのか、烈祖様が無視を決め込んだからなのか、それとも実際には無かったからなのか。