『後漢書』孝献帝紀を読んでみよう:その18

その17(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/05/21/000100)の続き。





建安元年春正月癸酉、郊祀上帝於安邑、大赦天下、改元建安。
二月、韓暹攻衛將軍董承。
夏六月乙未、幸聞喜。
(『後漢書』紀第九、孝献帝紀)

建安元年(6月まで)。



河東郡安邑の献帝改元する。



安邑に入ってすぐ改元しているあたり、安邑でやっと一息付けた、という感じだったのだろう。



帝乃御牛車、因都安邑。河東太守王邑奉獻綿帛、悉賦公卿以下、封邑為列侯。拜胡才征東將軍、張楊為安國將軍、皆假節・開府。其壘壁羣豎、競求拜職、刻印不給、至乃以錐畫之。或齎酒肉就天子燕飲。又遣太僕韓融至弘農、與(李)傕・(郭)汜等連和。傕乃放遣公卿百官、頗歸宮人婦女、及乗輿器服。
初、帝入關、三輔戸口尚數十萬、自傕・汜相攻、天子東歸後、長安城空四十餘日、強者四散、羸者相食、二三年閒、關中無復人跡。
建安元年春、諸將爭權、韓暹遂攻董承、承奔張楊、楊乃使承先繕修洛宮。
(『後漢書』列伝第六十二、董卓伝)

河東太守王邑、河内太守張楊献帝の元へ集って物資や兵を出す。なお張楊の河内太守は董卓によって与えられたものである(『三国志張楊伝)。



しかし、元董卓の部下と元白波賊とそれ以外という寄り合い所帯であったこの集団は、一息付いたらすぐに仲間割れが始まる。



董卓系と言っていい董承が白波系の韓暹に攻められ、董承はどちらでもなさそうな張楊に助けを求めた。



張楊は董承を洛陽修復の任を与えたという。


建安元年春正月、太祖軍臨武平、袁術所置陳相袁嗣降。
太祖將迎天子、諸將或疑、荀彧・程昱勸之、乃遣曹洪將兵西迎、衛將軍董承與袁術將萇奴拒險、洪不得進。
汝南・潁川黄巾何儀・劉辟・黄邵・何曼等、衆各數萬、初應袁術、又附孫堅
二月、太祖進軍討破之、斬辟・邵等、儀及其衆皆降。天子拜太祖建徳將軍。
夏六月、遷鎮東將軍、封費亭侯。
(『三国志』巻一、武帝紀)


なお、曹操献帝に積極的に近づき始めたのもこの頃であるという。



「将迎天子」という表現を素直に受け取ると、曹操はその段階から献帝を自分の近くへと引き寄せようと考えていたように思われる。安邑なり洛陽なりの献帝の居場所に曹操の方が行くだけなら「迎天子」にはならないのではなかろうか。


李傕らは自分の本拠へ献帝を連れて行こうとしたが、曹操も本質的には同じ発想だったのではないか。



本心はともあれ、汝南・潁川方面の黄巾残党を破った事で洛陽近辺の安全性が高まったとは言えるだろう。