『後漢書』孝献帝紀を読んでみよう:その19

その18(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/05/22/000100)の続き。





秋七月甲子、車駕至洛陽、幸故中常侍趙忠宅。
丁丑、郊祀上帝、大赦天下。己卯、謁太廟。
八月辛丑、幸南宮楊安殿。
癸卯、安國將軍張楊為大司馬、韓暹為將軍、楊奉為車騎將軍。
是時、宮室燒盡、百官披荊棘、依牆壁閒。州郡各擁彊兵、而委輸不至、羣僚飢乏、尚書郎以下自出採稆、或飢死牆壁閒、或為兵士所殺。
辛亥、鎮東將軍曹操自領司隸校尉、録尚書事。曹操殺侍中臺崇・尚書馮碩等。封衛將軍董承為輔國將軍、伏完等十三人為列侯、贈沮儁為弘農太守。
庚申、遷都許。己巳、幸曹操營。
九月、太尉楊彪・司空張喜罷。
冬十一月丙戌、曹操自為司空、行車騎將軍事、百官總己以聽。
(『後漢書』紀第九、孝献帝紀)


建安元年(12月まで)。




献帝、洛陽に入る。しかし洛陽はほとんど焼け野原だった模様。



献帝が宮殿代わりにした宦官趙忠の屋敷というのは、皮肉なことに宦官がこっそり宮殿と同じように作っていた大邸宅(本来は制限オーバーの違法)だった。



七月、帝還至洛陽、幸楊安殿。張楊以為己功、故因以「楊」名殿。乃謂諸將曰「天子當與天下共之、朝廷自有公卿大臣、楊當出扞外難、何事京師?」遂還野王。楊奉亦出屯梁。
乃以張楊為大司馬、楊奉為車騎將軍、韓暹為大將軍、領司隸校尉、皆假節鉞。暹與董承並留宿衛。
暹矜功恣睢、干亂政事、董承患之、潛召兗州曹操。操乃詣闕貢獻、稟公卿以下、因奏韓暹・張楊之罪。暹懼誅、單騎奔楊奉。帝以暹・楊有翼車駕之功、詔一切勿問。
於是封衛將軍董承・輔國將軍伏完等十餘人為列侯、贈沮儁為弘農太守。
曹操以洛陽殘荒、遂移帝幸許。
(『後漢書』列伝第六十二、董卓伝)

「楊安殿」を修築したのは先に張楊によって派遣されていた董承だったのだろう。


その後の任官の内容を見るに、張楊と韓暹がトップ2で、楊奉がそれに次ぐ、という感じだったと思われる。


献帝に付き従った時期が早い董承及び楊奉は、張楊・韓暹の後塵を拝している。もしかすると、このあたりに董承が曹操への接近を企み、楊奉が董昭の言葉に動かされて曹操を頼ろうとした理由があったのかもしれない。


張楊は自己顕示欲は強かったかもしれないが、言動自体はむしろ皇帝や大臣を尊重しているように見える。


秋七月、楊奉・韓暹以天子還洛陽、奉別屯梁。
太祖遂至洛陽、衛京都、暹遁走。天子假太祖節鉞、録尚書事。洛陽殘破、董昭等勸太祖都許。
九月、車駕出轘轅而東、以太祖為大將軍、封武平侯。自天子西遷、朝廷日亂、至是宗廟社稷制度始立。
天子之東也、奉自梁欲要之、不及。
冬十月、公征奉、奉南奔袁術、遂攻其梁屯、拔之。於是以袁紹為太尉、紹恥班在公下、不肯受。公乃固辭、以大將軍讓紹。天子拜公司空、行車騎將軍。是歳用棗祗・韓浩等議、始興屯田
呂布劉備、取下邳。備來奔。程昱説公曰「觀劉備有雄才而甚得衆心、終不為人下、不如早圖之。」公曰「方今收英雄時也、殺一人而失天下之心、不可。」
張濟自關中走南陽。濟死、從子繡領其衆。
(『三国志』巻一、武帝紀)

太祖朝天子於洛陽、引(董)昭並坐、問曰「今孤來此,當施何計?」昭曰「將軍興義兵以誅暴亂、入朝天子、輔翼王室、此五伯之功也。此下諸將、人殊意異、未必服從、今留匡弼、事勢不便、惟有移駕幸許耳。然朝廷播越、新還舊京、遠近跂望、冀一朝獲安。今復徙駕、不厭衆心。夫行非常之事、乃有非常之功、願將軍算其多者。」太祖曰「此孤本志也。楊奉近在梁耳、聞其兵精、得無為孤累乎?」昭曰「奉少黨援、將獨委質。鎮東・費亭之事、皆奉所定、又聞書命申束、足以見信。宜時遣使厚遺答謝、以安其意。説『京都無糧、欲車駕暫幸魯陽、魯陽近許、轉運稍易、可無縣乏之憂』。奉為人勇而寡慮、必不見疑、比使往來、足以定計。奉何能為累!」太祖曰「善。」
即遣使詣奉、徙大駕至許。
奉由是失望、與韓暹等到定陵鈔暴。
(『三国志』巻十四、董昭伝)


董昭と曹操は結託して楊奉を騙し、曹操のテリトリー内である許県へ連れて行った。



李傕あたりと比べると相当クレバーであり、このあたりは流石と言うほかない。だが自分のテリトリー内に連れて行こうという発想自体は李傕あたりと共通しているようにも見える。当時、皇帝の側にいる軍閥はみなそう思うのかもしれない。