走れトロイカ

建安元年春、諸將爭權、韓暹遂攻董承、承奔張楊、楊乃使承先繕修洛宮。七月、帝還至洛陽、幸楊安殿。張楊以為己功、故因以「楊」名殿。乃謂諸將曰「天子當與天下共之、朝廷自有公卿大臣、楊當出扞外難、何事京師?」 遂還野王。楊奉亦出屯梁。乃以張楊為大司馬、楊奉為車騎將軍、韓暹為大將軍、領司隸校尉、皆假節鉞。暹與董承並留宿衛。
暹矜功恣睢、干亂政事、董承患之、潛召兗州牧曹操。操乃詣闕貢獻、稟公卿以下、因奏韓暹・張楊之罪。暹懼誅、單騎奔楊奉。帝以暹・楊有翼車駕之功、詔一切勿問。於是封衞將軍董承・輔國將軍伏完等十餘人為列侯、贈沮儁為弘農太守。曹操以洛陽殘荒、遂移帝幸許。
(『後漢書』列伝第六十二、董卓伝)

長安を離れた後漢献帝は、河東郡の安邑にいったん落ち着く。




そこで少々すったもんだしたが、河内太守張楊の手引きで董承を洛陽に派遣して宮殿修理をさせた上で献帝を洛陽へ戻した。



そして張楊は河内郡の野王県、楊奉は河南尹の梁県と、洛陽の南北に駐屯する形となった。




思うに、この二将が洛陽を外から守るという戦略だったのだろう。





だが、それまで張楊楊奉そして韓暹の後塵を拝していた形の董承が曹操を引き入れ、曹操が皇帝を魯陽へ行かせるよう楊奉へ進言しておいて許県へ連れていった、という事情は昨日までの記事の通りである。





この情勢を見るに、張楊(野王)・韓暹(洛陽)・楊奉(梁)の三頭政治体制が出来ていたところに乱入した兗州牧がバランスを崩して楊奉に傾かせたということになる。



献帝を南方の魯陽へ寄せようというのは、洛陽との間に黄河を挟む張楊が影響力を発揮できないような遠方へと献帝をやってしまうことになるので、狭い視点で見れば楊奉に利するのだろう。



楊奉が魯陽行きに積極的なのは、自分のテリトリーである梁県に近いことはもちろんだが、張楊との政治闘争の中で確実に有利な材料だからというのもあったのではないかと思う。
(もちろん、昨日の記事で書いたように、劉表からの援助なり共闘なりを期待したような側面もあったのではないかと思う)





魯陽行きというのは、そういった情勢ゆえに楊奉が飛びつきそうな「エサ」だったのだろう。



そこを上手く突いた曹操たちを褒めるべきなのだと思う。