『後漢書』孝献帝紀を読んでみよう:その17

その16(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/05/20/000100)の続き。





秋七月甲子、車駕東歸。郭汜自為車騎將軍、楊定為後將軍、楊奉為興義將軍、董承為安集將軍、並侍送乗輿。張濟為票騎將軍、還屯陝。
八月甲辰、幸新豐。
冬十月戊戌、郭汜使其將伍習夜燒所幸學舍、逼脅乗輿。楊定・楊奉與郭汜戰、破之。
壬寅、幸華陰、露次道南。是夜、有赤氣貫紫宮。
張濟復反、與李傕・郭汜合。
十一月庚午、李傕・郭汜等追乗輿、戰於東澗、王師敗績、殺光祿勳鄧泉・衛尉士孫瑞・廷尉宣播・大長秋苗祀・歩兵校尉魏桀・侍中朱展・射聲校尉沮儁。
壬申,幸曹陽、露次田中。楊奉・董承引白波帥胡才・李樂・韓暹及匈奴左賢王去卑、率師奉迎、與李傕等戰、破之。
十二月庚辰、車駕乃進。李傕等復來追戰、王師大敗、殺略宮人、少府田芬・大司農張義等皆戰歿。進幸陝、夜度河。乙亥、幸安邑。
是歳、袁紹遣將麴義與公孫瓚戰於鮑丘、瓚軍大敗。
(『後漢書』紀第九、孝献帝紀)

興平2年(12月まで)。


張濟自陝來和解二人、仍欲遷帝權幸弘農。帝亦思舊京、因遣使敦請(李)傕求東歸、十反乃許。車駕即日發邁。李傕出屯曹陽。以張濟為驃騎將軍、復還屯陝。遷郭汜車騎將軍、楊定後將軍、楊奉興義將軍。又以故牛輔部曲董承為安集將軍。汜等並侍送乗輿。
汜遂復欲脅帝幸郿、定・奉・承不聽。汜恐變生、乃弃軍還就李傕。車駕進至華陰。寧輯將軍段煨乃具服御及公卿以下資儲、請帝幸其營。初、楊定與煨有隙、遂誣煨欲反、乃攻其營、十餘日不下。而煨猶奉給御膳、稟贍百官、終無二意。
李傕・郭汜既悔令天子東、乃來救段煨、因欲劫帝而西、楊定為汜所遮、亡奔荊州
而張濟與楊奉・董承不相平、乃反合傕・汜、共追乗輿、大戰於弘農東澗。承・奉軍敗、百官士卒死者不可勝數、皆弃其婦女輜重、御物符策典籍、略無所遺。射聲校尉沮儁被創墜馬。李傕謂左右曰「尚可活不?」儁罵之曰「汝等凶逆、逼迫天子、亂臣賊子、未有如汝者!」傕使殺之。
天子遂露次曹陽。承・奉乃譎傕等與連和、而密遣閒使至河東、招故白波帥李樂・韓暹・胡才及南匈奴右賢王去卑、並率其衆數千騎來、與承・奉共撃傕等、大破之、斬首數千級、乗輿乃得進。
董承・李樂擁衛左右、胡才・楊奉・韓暹・去卑為後距。傕等復來戰、奉等大敗、死者甚於東澗。自東澗兵相連綴四十里中、方得至陝、乃結營自守。
時殘破之餘、虎賁羽林不滿百人、皆有離心。承・奉等夜乃潛議過河、使李樂先度具舟舡、舉火為應。帝歩出營、臨河欲濟、岸高十餘丈、乃以絹縋而下。餘人或匍匐岸側、或從上自投、死亡傷殘、不復相知。爭赴舡者、不可禁制、董承以戈撃披之、斷手指於舟中者可掬。同濟唯皇后・宋貴人・楊彪・董承及后父執金吾伏完等數十人。其宮女皆為傕兵所掠奪、凍溺死者甚衆。
既到大陽、止於人家、然後幸李樂營。
百官飢餓、河内太守張楊使數千人負米貢餉。帝乃御牛車、因都安邑。
(『後漢書』列伝第六十二、董卓伝)

献帝、東へ。


後漢書董卓伝によると李傕・郭汜・張済は献帝長安から移動させようと考え、献帝自身も洛陽に戻ろうと思った、という事だったそうで、一度は李傕・郭汜も献帝の出発に同意していた。


しかし郭汜は後悔し、李傕と仲直りして献帝を再度拉致しようとしたが、董承や楊奉といった、元は董卓や李傕の元にいた将たちが抵抗。


大きな被害を出しながら献帝一行は東へ進み、元々は白波賊だったという楊奉は同じく白波賊だった李楽・韓暹・胡才、および南匈奴を呼び寄せて戦力を増強した。



献帝の渡河の際には船に殺到する者の指を董承が斬ったという。


また、伏皇后が献帝を背負ったとか、刃を身を以て守った、といった話も伝わる



宮女は李傕らに略奪され、九卿などの高官たちも多数殺されたが、何とか年末までに河東郡安邑まで辿り着いた。




河東郡は白波賊のテリトリーが領内に広がっていたので、白波関係の協力を得ている現状では、李傕らに対しては比較的安全だったのではなかろうか。




一方、袁紹公孫瓚を破り、河北における地盤を固め始めていた。