『後漢書』孝献帝紀を読んでみよう:その22

その21(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/05/25/000100)の続き。





四年春三月、袁紹公孫瓚于易京、獲之。
衛將軍董承為車騎將軍。
夏六月、袁術死。
是歳、初置尚書左右僕射。
武陵女子死十四日復活。
(『後漢書』紀第九、孝献帝紀)

建安4年。



北では袁紹公孫瓚を破り、南では袁術が死ぬ。



南北でそれなりの勢力だった二人が消えた事で、いわゆる中原に残っているのは事実上袁紹曹操の二人だけになったわけだ。



董承、車騎将軍になる。



これまで車騎将軍は楊奉だったが敗れた後は曹操が司空・行車騎将軍事として代行していたようだ。



そうなると曹操の代行から董承の正式任官となった事になるが、曹操は代わりに将軍位を受けてはいないのだろうか?


四年春二月、公還至昌邑。
張楊將楊醜殺楊、眭固又殺醜、以其衆屬袁紹、屯射犬。
夏四月、進軍臨河、使史渙・曹仁渡河撃之。固使楊故長史薛洪・河内太守繆尚留守、自將兵北迎紹求救、與渙・仁相遇犬城。交戰、大破之、斬固。公遂濟河、圍射犬。洪・尚率衆降、封為列侯、還軍敖倉。以魏种為河内太守、屬以河北事。
初、公舉种孝廉。兗州叛、公曰「唯魏种且不棄孤也。」及聞种走、公怒曰「种不南走越、北走胡、不置汝也!」既下射犬、生禽种、公曰「唯其才也!」釋其縛而用之。
是時袁紹既并公孫瓚、兼四州之地、衆十餘萬、將進軍攻許、諸將以為不可敵、公曰「吾知紹之為人、志大而智小、色厲而膽薄、忌克而少威、兵多而分畫不明、將驕而政令不一、土地雖廣、糧食雖豐、適足以為吾奉也。」
秋八月、公進軍黎陽、使臧霸等入青州破齊・北海・東安、留于禁屯河上。
九月、公還許、分兵守官渡。
冬十一月、張繡率衆降、封列侯。
十二月、公軍官渡。
(『三国志』巻一、武帝紀)


この年、曹操公孫瓚を破ったばかりの袁紹に先制攻撃を仕掛けていたようだ。張楊残党を討って河内郡を奪取した事に始まり、冀州の魏郡黎陽や青州といった袁紹サイドの領域に軍を進めている。


公孫瓚打倒直後で態勢が整っていないであろう事や、時間を与えて四州の兵力を束ねてやってこられると困るといった判断があったのではなかろうか。



そうなると、袁紹のものであった大将軍の位がそのままにされたとは思いにくい。曹操の側が攻撃を仕掛けた段階で、袁紹の官位は公式記録上は剥奪され、献帝曹操の朝廷にとって大将軍はいったん空位になったのではなかろうか。


その大将軍を代わりに受け取れるような人物というと・・・?