『後漢書』孝霊帝紀を読んでみよう:その27

その26(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/04/20/000100)の続き。





六年春二月、左將軍皇甫嵩大破王國於陳倉。
三月、幽州牧劉虞購斬漁陽賊張純。
下軍校尉鮑鴻下獄死。
(『後漢書』紀第八、孝霊帝紀)

中平6年(春)。


前中山相張純私謂前太山太守張舉曰、「今烏桓既畔、皆願為亂、涼州賊起、朝廷不能禁。又洛陽人妻生子両頭、此漢祚衰盡、天下有両主之徴也。子若與吾共率烏桓之衆以起兵、庶幾可定大業。」舉因然之。
四年、純等遂與烏桓大人共連盟、攻薊下、燔燒城郭、虜略百姓、殺護烏桓校尉箕稠・右北平太守劉政・遼東太守陽終等、衆至十餘萬、屯肥如。舉稱「天子」、純稱「彌天將軍安定王」、移書州郡、云舉當代漢、告天子避位、勑公卿奉迎。純又使烏桓峭王等歩騎五萬、入青・冀二州、攻破清河・平原、殺害吏民。
朝廷以(劉)虞威信素著、恩積北方、明年、復拜幽州牧。虞到薊、罷省屯兵、務廣恩信。遣使告峭王等以朝恩寬弘、開許善路。又設賞購舉・純。舉・純走出塞、餘皆降散。純為其客王政所殺、送首詣虞。靈帝遣使者就拜太尉、封容丘侯。
(『後漢書』列伝第六十三、劉虞伝)


劉虞、張純らを討ち取る。正確には、張純らの首に賞金を懸けて首を持ってこさせたのである。




下軍校尉鮑鴻は何故獄死したのか。正直自分にはよくわからない。


この鮑鴻は右扶風・屯騎校尉という武張った官歴なので、前年の黄巾討伐もその能力を見込まれたのだと思うが、上手く行かなかったのだろうか。




この後が色々大変なので、今日はここまでとしておく。