『後漢書』孝献帝紀を読んでみよう:その8

その7(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/05/11/000100)の続き。





秋七月、司空种拂免、光祿大夫濟南淳于嘉為司空。太尉趙謙罷、太常馬日磾為太尉。
九月、蚩尤旗見于角・亢。
冬十月壬戌、董卓殺衛尉張温。
十一月、青州黄巾寇太山、太山太守應劭擊破之。黄巾轉寇勃海公孫瓚與戰於東光、復大破之。
是歳、長沙有人死經月復活。
(『後漢書』紀第九、孝献帝紀)

初平2年(後半)。


時太史望氣、言當有大臣戮死者。
(董)卓乃使人誣衛尉張温與袁術交通、遂笞温於市、殺之、以塞天變。
前温出屯美陽、令卓與邊章等戰無功、温召又不時應命、既到而辭對不遜。時孫堅為温參軍、勸温陳兵斬之。温曰「卓有威名、方倚以西行。」堅曰「明公親帥王師、威振天下、何恃於卓而賴之乎?堅聞古之名將、杖鉞臨衆、未有不斷斬以示威武者也。故穰苴斬莊賈、魏絳戮楊干。今若縱之、自虧威重、後悔何及!」温不能從、而卓猶懷忌恨、故及於難。
(『後漢書』列伝第六十二、董卓伝)

董卓、三公経験者張温を殺す。「刑死する大臣がいる」という占いがあったのでやった、という。つまり自分がそれに当たっては困る、他のヤツを当てよう、というわけだ。


そこに、かつてあの孫堅董卓を殺すよう進言したのが張温だった、という過去も影響したという。あれ、張温はこれはとばっちりなのでは・・・?


三年、舉高第、再遷、六年、拜太山太守。
初平二年、黄巾三十萬衆入郡界。(応)劭糾率文武連與賊戰、前後斬首數千級、獲生口老弱萬餘人、輜重二千両、賊皆退却、郡内以安。
(『後漢書』列伝第三十八、応劭伝)


応劭こと風俗通先生、青州黄巾30万を撃退。



兗州の太守が青州黄巾30万の兵と戦う・・・?どこかで聞いた話のような・・・。



青州黄巾は勃海国へ逃げて行ったが、今度は公孫瓚に撃退されてまた兗州に戻ってくるのだった。