関中反乱未遂

及帝崩、董卓廢少帝、殺何太后。(蓋)勳與書曰「昔伊尹・霍光權以立功、猶可寒心、足下小醜、何以終此?賀者在門、弔者在廬、可不慎哉!」卓得書、意甚憚之、徴為議郎。
時左將軍皇甫嵩精兵三萬屯扶風、勳密相要結,將以討卓。會嵩亦被徴、勳以衆弱不能獨立、遂並還京師。
(『後漢書』列伝第四十八、蓋勲伝)

董卓が少帝劉弁を廃した時、当時の京兆尹蓋勲は右扶風に駐屯していた左将軍皇甫嵩に反董卓の挙兵を呼び掛けていたという。


皇甫嵩・蓋勲共に中央に召還されたために果たされずに終わったが。



タイミングがズレていたら、董卓は西から皇甫嵩・蓋勲に攻められ、東では袁紹らが反旗を翻す、という挟み撃ちの形になっていたという事か。



(蓋)勳時與宗正劉虞・佐軍校尉袁紹同典禁兵。勳謂虞・紹曰「吾仍見上、上甚聰明、但擁蔽於左右耳。若共併力誅嬖倖、然後徴拔英俊、以興漢室、功遂身退、豈不快乎!」虞・紹亦素有謀、因相連結、未及發、而司隸校尉張温舉勳為京兆尹。帝方欲延接勳、而蹇碩等心憚之、並勸從温奏、遂拜京兆尹。
(『後漢書』列伝第四十八、蓋勲伝)


なお蓋勲は霊帝の時から劉虞・袁紹と共に宦官を排除しようと考えていたという。


あるいはこの「関中反乱」計画も袁紹の「関東反乱」と通じ合ったものという可能性もあるだろうか。