『三国志』武帝紀を読んでみよう:その8

その7(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/12/07/000100)の続き。





青州黄巾衆百萬入兗州、殺任城相鄭遂、轉入東平。
劉岱欲撃之、鮑信諫曰「今賊衆百萬、百姓皆震恐、士卒無鬭志、不可敵也。觀賊衆群輩相隨、軍無輜重、唯以鈔略為資、今不若畜士衆之力、先為固守。彼欲戰不得、攻又不能、其勢必離散、後選精鋭、據其要害、擊之可破也。」岱不從、遂與戰、果為所殺。
信乃與州吏萬潛等至東郡迎太祖領兗州牧。遂進兵撃黄巾于壽張東。信力戰鬭死、僅而破之。購求信喪不得、衆乃刻木如信形狀、祭而哭焉。追黄巾至濟北、乞降。
冬、受降卒三十餘萬、男女百餘萬口、收其精鋭者、號為青州兵。
袁術與(袁)紹有隙、術求援於公孫瓚、瓚使劉備屯高唐、單經屯平原、陶謙屯發干、以逼紹。太祖與紹會撃、皆破之。
(『三国志』巻一、武帝紀)

青州黄巾、兗州に来襲。


三年、舉高第、再遷、六年、拝太山太守。
初平二年、黄巾三十萬衆入郡界。(應)劭糾率文武連與賊戰、前後斬首數千級、獲生口老弱萬餘人、輜重二千両、賊皆退却、郡内以安。
(『後漢書』列伝第三十八、応劭伝)


前の年、泰山太守応劭は黄巾30万を退けたという。この黄巾と今回の青州黄巾は同じ集団ではなかろうか(直前の時期に公孫瓚に撃退されたのも)。


つまりこの青州黄巾は公孫瓚や応劭に撃退された成れの果てであり、そういう事実がある以上、ここで鮑信が言うような籠城策は必要ない、というのが州牧劉岱の判断だったのではなかろうか。


1郡の太守が撃退出来ているのに州牧が籠城するわけにはいかない、といった面子の問題もあったかもしれない。



なので、鮑信や魏武が抗戦しているのも応劭と同じ事をしたという事なのだろうし、降伏したのも公孫瓚や応劭にやられた上にまた負けて食料も得られず進退窮まったから、という事なのだろう。きっと。




かくして、魏武は兗州牧の地位と、100万と号する食い詰め者を手に入れたのであった。