その14(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/04/04/000100)の続き。
二年春、大疫、使常侍・中謁者巡行致醫藥。
三月、司徒袁滂免、大鴻臚劉郃為司徒。
乙丑、太尉橋玄罷、太中大夫段熲為太尉。
京兆地震。
司空袁逢罷、太常張濟為司空。
夏四月甲戌朔、日有食之。
辛巳、中常侍王甫及太尉段熲並下獄死。
丁酉、大赦天下、諸黨人禁錮小功以下皆除之。
東平王端薨。
五月、衛尉劉寬為太尉。
秋七月、使匈奴中郎將張脩有罪、下獄死。
冬十月甲申、司徒劉郃・永樂少府陳球・衛尉陽球・歩兵校尉劉納謀誅宦者、事泄、皆下獄死。
巴郡板楯蠻叛、遣御史中丞蕭瑗督益州刺史討之、不剋。
十二月、光祿勳楊賜為司徒。
鮮卑寇幽・并二州。
是歳、河閒王利薨。
洛陽女子生兒、両頭四臂。
(『後漢書』紀第八、孝霊帝紀)
光和2年。
光和二年、復代橋玄為太尉。在位月餘、會日食自劾、有司舉奏、詔收印綬、詣廷尉。時司隸校尉陽球奏誅王甫、并及熲、就獄中詰責之、遂飲鴆死、家屬徙邊。
(『後漢書』列伝第五十五、段熲伝)
辺境で功績を挙げた段熲、都では司隸校尉によって命を落とす。宦官王甫誅殺を狙う酷吏陽球により、その一味と認定されたという。
だがその陽球や司徒劉郃らも宦官曹節らの誅殺を図って反撃を受け、逆に獄死した。
なお司徒劉郃は桓帝・霊帝の故郷河間国の人間で、霊帝を勧めた劉儵の弟である。
光和元年、遷太尉、數月、以日食免。復拜光祿大夫。明年、為永樂少府、乃潛與司徒河閒劉郃謀誅宦官。
初、郃兄侍中儵、與大將軍竇武同謀倶死、故郃與(陳)球相結。事未及發、球復以書勸郃曰「公出自宗室、位登台鼎、天下瞻望、社稷鎮衛、豈得雷同容容無違而已?今曹節等放縱為害、而久在左右、又公兄侍中受害節等、永樂太后所親知也。今可表徙衛尉陽球為司隸校尉、以次收節等誅之。政出聖主、天下太平可翹足而待也。」又尚書劉納以正直忤宦官、出為歩兵校尉、亦深勸於郃。郃曰「凶豎多耳目、恐事未會、先受其禍。」納曰「公為國棟梁、傾危不持、焉用彼相邪?」郃許諾、亦結謀陽球。
球小妻、程璜之女、璜用事宮中、所謂程大人也。節等頗得聞知、乃重賂於璜、且脅之。璜懼迫、以球謀告節、節因共白帝曰「郃等常與藩國交通、有惡意。數稱永樂聲埶、受取狼籍。歩兵校尉劉納及永樂少府陳球・衛尉陽球交通書疏、謀議不軌。」帝大怒、策免郃、郃與球及劉納・陽球皆下獄死。球時年六十二。
(『後漢書』列伝第四十六、陳球伝)
なお、劉郃・陳球らの企みは陳球の側室の父であった宦官程璜から漏れたのだという。
宦官、特に中常侍を殺そう、潰そうと何度も試みられては返り討ちにあってきた、というのが霊帝の時代だったと言えるのかもしれない。