『後漢書』孝霊帝紀を読んでみよう:その22

その21(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/04/13/000100)の続き。





二年春正月、大疫。
琅邪王據薨。
二月己酉、南宮大灾、火半月乃滅。癸亥、廣陽門外屋自壞。
税天下田、畝十錢。
黑山賊張牛角等十餘輩並起、所在寇鈔。
司徒袁隗免。
三月、廷尉崔烈為司徒。
北宮伯玉等寇三輔、遣左車騎將軍皇甫嵩討之、不尅。
夏四月庚戌、大風、雨雹。
五月、太尉鄧盛罷、太僕河内張延為太尉。
秋七月、三輔螟。
左車騎將軍皇甫嵩免。
八月、以司空張温為車騎將軍、討北宮伯玉。
九月、特進楊賜為司空。
冬十月庚寅、司空楊賜薨、光祿大夫許相為司空。
前司徒陳耽・諫議大夫劉陶坐直言,下獄死。
十一月、張温破北宮伯玉於美陽、因遣盪寇將軍周慎追撃之、圍榆中。又遣中郎將董卓討先零羌。慎・卓並不克。
鮮卑寇幽・并二州。
是歳、造萬金堂於西園。
陽民生兒、両頭四臂。
(『後漢書』紀第八、孝霊帝紀)


中平2年。


其八事、大較言天下大亂皆由宦官。宦官事急、共讒(劉)陶曰「前張角事發、詔書示以威恩、自此以來、各各改悔。今者四方安靜、而陶疾害聖政、專言妖孼。州郡不上、陶何縁知?疑陶與賊通情。」於是收陶、下黃門北寺獄、掠按日急。陶自知必死、對使者曰「朝廷前封臣云何?今反受邪譖。恨不與伊・呂同疇、而以三仁為輩。」遂閉氣而死、天下莫不痛之。
(『後漢書』列伝第四十七、劉陶伝)

劉陶は天下の乱れが宦官のせいであると皇帝へ直言したが、宦官たちは「乱は平定されて皆悔い改めているのに、劉陶は天下がまだ乱れていると言っております。どうやって知ったんですかねえ・・・?劉陶の方が賊と通じているのでは?」などと言い、劉陶の方が投獄された。


明年、南宮災。(張)讓・(趙)忠等説帝令斂天下田畝税十錢、以修宮室。發太原・河東・狄道諸郡材木及文石、毎州郡部送至京師、黄門常侍輒令譴呵不中者、因強折賤買、十分雇一、因復貨之於宦官、復不為即受、材木遂至腐積、宮室連年不成。刺史・太守復增私調、百姓呼嗟。凡詔所徴求、皆令西園騶密約勑、號曰「中使」、恐動州郡、多受賕賂。刺史・二千石及茂才孝廉遷除、皆責助軍修宮錢、大郡至二三千萬、餘各有差。當之官者、皆先至西園諧價、然後得去。有錢不畢者、或至自殺。其守清者、乞不之官、皆迫遣之。
時鉅鹿太守河内司馬直新除、以有清名、減責三百萬。直被詔、悵然曰「為民父母、而反割剝百姓、以稱時求、吾不忍也。」辭疾、不聽。行至孟津、上書極陳當世之失、古今禍敗之戒、即吞藥自殺。書奏、帝為暫絶修宮錢。
又造萬金堂於西園、引司農金錢繒帛、仞積其中。
(『後漢書』第六十八、宦者列伝、張譲


この時期の田への課税、万金堂設立などは、張譲ら宦官が発案または管理したようである。これらは当然官僚たちからは評判が悪かった。太守らは先に取られた金を任地で私的に「補填」(つまり大いに私腹を肥やす)するか、自分の財産を供出するか、という選択に迫られるのである。


とはいえ、このあたりも官僚たちがほっといても任地で私腹を肥やしたり、元々豪族出身で財産家だったりしている所から出来るだけ吸い上げようという霊帝と宦官の企み、と見る事も出来るかもしれない。