『後漢書』孝霊帝紀を読んでみよう:その11

その10(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/03/31/000100)の続き。





五年夏四月癸亥、大赦天下。
益州郡夷叛、太守李顒討平之。
復崇高山名為嵩高山。
大雩。使侍御史行詔獄亭部、理冤枉、原輕繫、休囚徒。
五月、太尉陳耽罷、司空許訓為太尉。
閏月、永昌太守曹鸞坐訟黨人、弃市。詔黨人門生故吏父兄子弟在位者皆免官禁錮
六月壬戌、太常南陽劉逸為司空。
秋七月、太尉許訓罷、光祿勳劉寬為太尉。
冬十月壬午、御殿後槐樹自拔倒豎。
司徒袁隗罷。
十一月丙戌、光祿大夫楊賜為司徒。
十二月、甘陵王定薨。
試太學生年六十以上百餘人、除郎中・太子舍人至王家郎・郡國文學吏。
是歳、鮮卑寇幽州。
沛國言黄龍見譙。
(『後漢書』紀第八、孝霊帝紀)

熹平5年。


熹平五年、永昌太守曹鸞上書大訟黨人、言甚方切。帝省奏大怒、即詔司隸益州檻車收鸞、送槐里獄掠殺之。
於是又詔州郡更考黨人門生故吏父子兄弟、其在位者免官禁錮、爰及五屬。
(『後漢書』列伝第五十七、党錮列伝)


永昌太守曹鸞なる人物は、おそらくいわゆる党錮についての冤罪を強く主張した事で霊帝の怒りを買い、即逮捕されて命を奪われた。皇帝の側にいた宦官が皇帝の怒りを煽ったような面があったのかもしれない。



更に、「党人」の親族や関係者(弟子や元部下)を再度取り調べたり、それらの関係者の官位剥奪や公職追放まで決めたという。つまり、曹鸞の上奏が引き金となって「党人」や関係者へ更に厳しくするようになったという事だ。




初、漢熹平五年、黄龍見譙。光祿大夫橋玄問太史令單颺「此何祥也?」颺曰「其國後當有王者興、不及五十年、亦當復見。天事恆象、此其應也。」内黄殷登默而記之。至四十五年、登尚在。三月、 黄龍見譙。登聞之曰「單颺之言、其驗茲乎!」
(『三国志』巻二、文帝紀、延康元年)


この年に沛国譙県で目撃されたというイエロードラゴンは、『三国志』で新たなる王者の予兆として書かれているものである。