『後漢書』孝霊本紀を読んでみよう:その3

その2(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/03/22/000100)の続き。





秋七月、破羌將軍段熲復破先零羌於涇陽。
八月、司空王暢免、宗正劉寵為司空。
九月辛亥、中常侍曹節矯詔誅太傅陳蕃・大將軍竇武及尚書令尹勳・侍中劉瑜・屯騎校尉馮述、皆夷其族。
太后遷于南宮。
司徒胡廣為太傅、録尚書事。司空劉寵為司徒、大鴻臚許栩為司空。
冬十月甲辰晦、日有食之。令天下繫囚罪未決入縑贖、各有差。
十一月、太尉劉矩免、太僕沛國聞人襲為太尉。
十二月、鮮卑及濊貊寇幽并二州。
(『後漢書』紀第八、孝霊帝紀)


竇武と陳蕃が殺され、皇太后も幽閉。この政変を主導したのは本紀内にもあるように宦官の曹節らである。皇帝・皇太后の側にあって政治を左右してきた宦官を排除しようと画策した竇武らと、それに抵抗する宦官の攻防と言ったところか。


(竇)武既輔朝政、常有誅翦宦官之意、太傅陳蕃亦素有謀。時共會朝堂、蕃私謂武曰「中常侍曹節・王甫等、自先帝時操弄國權、濁亂海内、百姓匈匈、歸咎於此。今不誅節等、後必難圖。」武深然之。蕃大喜、以手推席而起。武於是引同志尹勳為尚書令、劉瑜為侍中、馮述為屯騎校尉。又徴天下名士廢黜者前司隸李膺・宗正劉猛・太僕杜密・廬江太守朱㝢等、列於朝廷。請前越巂太守荀翌為從事中郎、辟潁川陳寔為屬。共定計策。於是天下雄俊、知其風旨、莫不延頸企踵、思奮其智力。
(『後漢書』列伝第五十九、竇武伝)

時(竇)武出宿歸府、典中書者先以告長樂五官史朱瑀。瑀盜發武奏、罵曰「中官放縱者、自可誅耳。我曹何罪、而當盡見族滅?」因大呼曰「陳蕃・竇武奏白太后廢帝,為大逆!」乃夜召素所親壯健者長樂從官史共普・張亮等十七人、喢血共盟誅武等。
曹節聞之、驚起、白帝曰「外閒切切、請出御德陽前殿。」令帝拔劒踊躍、使乳母趙嬈等擁衞左右、取棨信、閉諸禁門。召尚書官屬、脅以白刃、使作詔板。
拜王甫為黄門令、持節至北寺獄收尹勳・山冰。冰疑、不受詔、甫格殺之。遂害勳、出鄭䬃。
還共劫太后、奪璽書。
令中謁者守南宮、閉門、絶複道。使鄭䬃等持節、及侍御史・謁者捕收武等。武不受詔、馳入歩兵營、與紹共射殺使者。召會北軍五校士數千人屯都亭下、令軍士曰「黄門常侍反、盡力者封侯重賞。」詔以少府周靖行車騎將軍、加節、與護匈奴中郎將張奐率五營士討武。夜漏盡、王甫將虎賁・羽林・廐騶・都候・劒戟士、合千餘人、出屯朱雀掖門、與奐等合。明旦悉軍闕下、與武對陳。甫兵漸盛、使其士大呼武軍曰「竇武反、汝皆禁兵、當宿衛宮省、何故隨反者乎?先降有賞!」營府素畏服中官、於是武軍稍稍歸甫。自旦至食時、兵降略盡。武・紹走、諸軍追圍之、皆自殺、梟首洛陽都亭。收捕宗親・賓客・姻屬、悉誅之、及劉瑜・馮述、皆夷其族。徙武家屬日南、遷太后於雲臺。
(『後漢書』列伝第五十九、竇武伝)


竇武らによる宦官曹節・王甫らの捕縛を求める上奏が途中で暴かれて宦官側に伝わり、宦官曹節らは皇帝を(奪還されないよう)守り、逆に竇武らを捕縛・誅殺する兵を出したのである(尚書を剣で脅して命令を書かせたとされている)。



皇帝(霊帝)にとっては皇太后も竇武も血縁は無い、ほんの少し前まで他人だった者たちなので、宦官たちの行動に逆らう気が無かったのかもしれないし、逆らったら皇帝でも消されかねない、と考えていたのかもしれない。そもそも宦官のやる事に口を挟めるような状況に無かったのかもしれない。




何にせよ、霊帝を擁立した体制は1年も持たずに崩壊したのである。「皇太后が南宮に遷った」というのは、皇太后が実権を奪われ軟禁状態となった事を示すのである。