『漢紀』高祖皇帝紀を読んでみよう:その10

その9(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20181105/1541344963)の続き。





項梁以八千人渡江、聞陳嬰已下東陽、欲與連和。嬰者故東陽令史、縣中欲立為王。嬰母曰、汝家世貧賤、今暴得大名不祥。不如以兵屬人、事成猶得封侯、事不成、禍有所歸、而易以亡。嬰遂以兵屬梁。
黥布亦以兵屬梁焉。布、六人也。少時客相之、當黥而王。及其黥也、乃欣然而喜。輸徒驪山、遂亡走至江中。聚徒屬而從項梁。
夏四月、項梁殺景駒及秦嘉止薛。沛公往從之、梁益沛公兵、遂攻豐拔之。雍齒奔魏。
居巢人范筯年七十餘、説梁曰、秦滅六國、楚最無罪。自懷王入秦不反、楚人憐之。故語曰、楚雖三戸、亡秦必楚。今陳勝首事不立楚後、其勢不長。今君起江東、楚蜂起之將皆爭附君者、以君世世楚將。為能復立楚後也。梁乃求懷王之孫心。心為人牧羊。
(『漢紀』高祖皇帝紀巻第一)

劉邦、項梁の傘下に入る。



当初合流しようとしていた景駒が倒されたので、倒した項梁にそのまま付いた、という構図。最終的に項梁の力を借りて豊を落としているので、当初の目的は果たしたと言える。



ちなみに『史記』高祖本紀などによるとこの時に項梁は劉邦へ兵5000を与えたという。この頃には項梁の勢力は6、7万人になっていたというが、そこから5000というのは素直に考えると10分の1弱であり、新入りに与えるにしては中々気前がいい。劉邦は項梁に見込まれていたのだろうか。




そして、項梁は陳勝と違う道を選ぶ。かつての楚王の子孫を探し出して新たな楚王としたのである。